■ 創作童話  | 
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                ★ 鯨尺物語 太地町 沖の親子鯨のお話 (正和 作) | 
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初めに: このお話は正和さんの創作です。このような話が和歌山県太地町(たいじちょう)に伝わっているということではありませんので、その点はご注意ください。 それでは、はじまり、はじまり〜。 (てつ) 鯨尺物語 太地町 沖の親子鯨のお話 (正和)
 昔、昔、熊野灘にのぞむ南紀州の太地の町の沖に、鯨の親娘が住んでいました。 
 そしてそれはある秋の日の夕方のことでした。 
 浜からこのようすを見ていましたが、そのうち親娘は、そっと太地の町の中に行ってみる事にしました。 
 娘鯨「ねえ、お母さん、私もあんな着物が欲しいの。だから、作って頂戴」 
 ある日、とうとう一人で町に行き一軒の呉服屋さんのお店をたずねました。 それを聞いてお内儀さんは大層困ってしまいました。 それを聞くと、娘鯨は悲しそうにじっとしばらく俯いたままでしたが、やがて小さな声で、 
 それから鯨の娘は、夕方になると、太地の浜にきては黙って溜息をつきながら太地の町のあかりを眺める日が続き、そのうち、なにも食べないようになりました。 
 鯨の死んだ、その後には、一本の長い竹の〔物差し〕が浮いていました。  
 お母さん鯨は、泣く泣くそれを持って太地の町に呉服屋さんに行き、お内儀さんに娘が亡くなったことを話して、生前世話になったお礼を言いました。 
 そして、 
 鯨のお母さんは、 
 やがて、太地の町の人達も鯨の残した言葉の通り捕鯨をするようになり、又、太地の町で使い始めた〔鯨尺〕はやがて京都・大阪はもとより全国にひろがり、着物を作る時には〔曲尺(かねざし)〕を使わずに〔鯨尺〕を使って布を裁ち着物を縫うようになったと言う。 
 私達が、あの食糧のない頃から長い間美味しく食べさせて頂いた鯨のお肉も、そして、いつも私達の身体を暖かく優しく包んでくれる着物を作った〔物差し〕もみんなこの優しく悲しい物語が始まりだということです。 おわり (注)これはフィクションで実際の出来事では有りません。作者(正和) 
 鯨尺について鯨尺(くじらざし)は、「くじらじゃく」とも言います。 「鯨尺」という名前は、鯨のひげから「物差し」を作っていたのが由来とされます。 
 
 (てつ) 2009.3.4 UP 
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