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◆ 船玉神社(ふなたまじんじゃ)  和歌山県田辺市本宮町三越  三越村:紀伊続風土記(現代語訳)


熊野本宮大社の奥の院とも伝わる船の神様

船玉神社

 熊野本宮大社は、明治22年(1889年)8月に起こった水害時まで熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にありました。
 現在、熊野川の上流にはダムができたため、水量が減って、洪水で社殿が流されたことなど想像もできないほど痩せた川になってしまいましたが、かつては水量豊かで、大斎原は大河に浮かぶ小島のようであったとか。
 また、音無川も、水量が減り、旧社地近くではほとんど水が流れていない有り様ですが、かつては熊野詣といえば音無川が連想されるほど、名を知られた川でした。

 熊野詣は、精進潔斎を眼目としていました。
 熊野権現の御利益はあらゆる人々に無差別に施されるものだとされましたが、しかし、それも参詣者の日々の精進の上に与えられるものだったのです。
 道中、所々で祓をし、海辺や川辺では垢離を掻き、身心を清め、王子社では幣を奉り、経供養などを行いました。また、妄語や綺語、悪口、二枚舌など道理に背く言葉は厳禁で、忌詞を用いることにより妄語などを戒めました。

 本宮に臨む最後の垢離場が音無川でした。
 音無川の流れに足を踏み入れ、心身を引き締めて、徒渉。草鞋を濡らし、本宮の宝前にぬかずきました。これを「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」といいました。

 この音無川のずっと上流、熊野古道・中辺路の猪鼻王子(いのはなおうじ)近くに船玉(ふなたま)神社というの神様を祭った神社があります。
 山のなかです。「なぜこんなところに船の神様が?」と思うような場所にありますが、舟玉神社の由来は次のようなものです。

 昔、玉滝という滝があって、その滝つぼで神様が行水をしていると、急に大雨となった。折しも滝つぼに浮かんでいた一匹の蜘蛛がその大雨に溺死しそうになった。それを神様が見て、榊(サカキ)の葉を投げてやった(カシの葉であったという話も)。蜘蛛はその葉に乗って、手足を使って船を漕ぐようにして無事に岸にたどり着いた。
 その様子を神様が見て、船というものを思い付き、楠をくりぬいて丸木船を造った。これが最初の船であった。

 船玉神社は本宮大社の奥の院にあたるとも伝えられています。
 なお、玉滝は明治22年の大水害で埋まってしまい、現在はありません。
 船玉神社から音無川河口にあった本宮、月に1回、「みよろのほし」という何か魂のようなものが、音無川を上下して通ったといわれています。
 そのため、音無川の流域は常に清浄にしておかなければならず、船玉神社に最も近い発心門(ほっしんぼ)という集落では、音無川や船玉神社の方角に向かって小便することは戒められたそうです。

 また、隣には玉姫稲荷がまつられ、舟玉と夫婦神ともいわれているそうですが、玉姫稲荷は月に1回、玉置山(たまきさん。奈良県十津川村。「熊野三山の奥の宮」ともいわれる玉置神社がある)に通うということです。

船玉神社と玉姫稲荷 左が船玉神社、右が玉姫稲荷。社殿は昭和に建て直されたもの。

 船玉神社は突き出た地形の先端部付近にあり、やはり神社にとって地形や地質がとても重要な要素であることがわかります。大地との関わりなしに日本人の信仰はあり得なかったことを、熊野各地にある神社は気づかせてくれます。

写真は船玉神社。

端唄『紀伊の国』

 この船玉神社、熊野信仰が衰微した幕末から明治のころにかけて全国的にその名を知られます。
 幕末から明治のころにかけて全国的に流行した端唄(はうた)『紀伊の国』に歌われたからです(玉姫稲荷の名も見えますが、これは江戸吉原の稲荷社)。

紀伊の国は 音無川の水上に 立たせたまふは
船玉山(せんぎょくさん) 船玉十二社 大明神
さて東国にいたりては 玉姫稲荷が 三囲(みめぐり)へ 狐の嫁入り
お荷物を 担へは 強力(ごうりき)稲荷さま
頼めば田町の袖摺も さしづめ今宵は待ち女郎
仲人は真前(まっさき) 真黒九郎助(まっくろくろすけ)稲荷につまされて
子まで生(な)したる信太妻(しのだづま)

 この歌の全国的な大流行のおかげで、音無川の上流、辺鄙な山奥にある小さな神社にもかかわらず、船玉神社は全国的にその名を知られるようになりました。

 歌を作ったのは江戸詰の新宮藩士、関匡(ただす)と玉松千年人(ちねと)という二人であったようです。
 船玉神社は、熊野川河口、新宮対岸の鵜殿(うどの。三重県鵜殿村)の船乗り衆の信仰する船の守り神であったので、新宮藩士の二人も、船玉神社に対する船乗り衆の信仰の篤さを知っていたのでしょう。
 しかし、それにしても、いったいなぜ鵜殿の船乗り衆は熊野灘から遠く離れたこんな山奥にある船の神様を信仰したのでしょうか?

 また、玉姫稲荷が船玉神社の隣に祀られるようになったのは、おそらくこの歌の流行の後なのではないでしょうか。

 ところで、なぜ端唄『紀伊の国』は全国的に流行したのか。

 「さて東国にいたりては」以降、玉姫稲荷、囲稲荷、強力稲荷、田町の袖摺稲荷、真前稲荷、九郎助稲荷と、いくつもの稲荷さまが詠み込まれていますが、これはみな、じつは江戸吉原周辺にある稲荷社なのです。
 この歌がなぜ流行ったのかというと吉原のことを歌っているからなのです。
 吉原は御免色里。江戸の階級的封建社会のなかにあって、吉原は特別な場所でした。吉原では、武士も町人もありませんでした。吉原のなかでは、どんな身分のものであろうと、ひとりの人として認められました。階級差別を認めない、人を人として認める。江戸時代の社会的制約から遊離した自由な世界だったのです。自由を求めるのは人の性。吉原は江戸時代の人にとって憧れの場所だったのです。
 吉原に遊んだことのある者は、玉姫、囲、強力、田町の袖摺、真前、九郎助稲荷と聞くだけで吉原を連想し、胸をときめかせたことでしょう。
 この歌は、吉原で芸者らに歌われ、江戸中の人気をさらい、参勤交代を通して全国に広がっていきました。

 岩手県釜石市の御船祭にうたわれた船歌には、

紀の国の音無川の水上に、船玉十二社大明神、ホホヨー、ハアヨイハアーヨイ

 という歌詞があるそうです。当然、端唄『紀伊の国』から採られたものでしょうけれど、その流行の広がりには、テレビもラジオもない時代としては、驚異的のものがあります。

 ◆ 参考文献

きのくに民話叢書1『熊野・本宮の民話』和歌山県民話の会
くまの文庫4『熊野中辺路 古道と王子社』熊野中辺路刊行会
くまの文庫 別巻『熊野中辺路 歴史と風土』熊野中辺路刊行会
瀧川政次『熊野<増補新版>』原書房

 

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熊野本宮大社」や「道の駅奥熊野古道ほんぐう」の前で乗ることができますので、発心門王子から熊野本宮大社までの熊野古道を歩きたい方はご利用になると便利だと思います。
発心門王子から熊野本宮大社までの熊野古道の距離はおよそ7km、所要時間は2時間15分ほどです。
船玉神社へは本宮大社への方向とは反対の方向に進み、猪鼻王子を過ぎます。

船玉神社付近から赤木越(あかぎごえ)湯の峰温泉に抜ける古道もあります。
赤木越は西国三十三所観音巡礼の道。

駐車場:駐車場はないが、船玉神社近くに駐車スペースあり。
地図Yahoo地図

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