熊野本宮の聖域の入口
熊野古道「中辺路(なかへち)」。猪ノ鼻王子と水呑王子の間に位置する発心門王子(ほっしんもんおうじ)。御幸が行われた時代には五体王子(熊野九十九王子のうち、格別の崇敬を受けた王子)ではありませんでしたが、のちに五体王子となりました。
明治の神社合祀後は「王子神社遺址」の石碑が立つだけでしたが、平成2年に朱塗りの社殿が建てられました。
発心とは発菩提心(はつぼだいしん)、「仏道に入り、仏智を証する志をおこす」という意味の言葉です。
中世、この発心門王子の近くに「発心門」と呼ばれた大鳥居がありました。
この大鳥居「発心門」が本宮の聖域の入り口であり、参詣者はこの大鳥居の前で祓いをして、その後、鳥居をくぐり、発心門王子に参りました。
「発心門」まで来たら、本宮まで後2時間半ほど。本宮の入り口までたどり着いた参詣者の喜びもひとしおであったことでしょう。
南無房宅
藤原定家(1162 ~1241)の『後鳥羽院熊野御幸記』によると、発心門の近くには南無房という尼の宅があり、定家はここを宿所としました。当時、熊野詣の道中、社寺に歌や詩を書き付けることが流行っていたそうで、定家はこの南無房宅の巽(南東)角の門柱に、
慧日光前懺罪根 慧日光前罪根を懺す
大悲道上発心門 大悲の道上発心の門
南山月下結縁力 南山月下結縁の力
西刹雲中弔旅魂 西刹の雲中旅魂を弔す
いりがたきみのりのかどはけふすぎぬ いまより六(む)つの道にかへすな
と、発心門を詠んだ詩と歌を書き付けました(定家がこの熊野詣の道中で社寺に歌や詩を書き付けたのはここが初めて)。
その後、発心門王子に参詣し、その社の後ろにある南無房のお堂のなかにも一首書き付け、南無房の尼がじつは歌や詩を書き付けられることを嫌っていたことをあとで知りました。
杖の献納
中世、熊野詣の参詣者は出発に際し、先達(せんだつ。熊野詣の案内人。修験者が務めました)から1本の杖を与えられました。この杖をついて、道者は熊野への道を歩きました。
そして、この本宮の聖域の入り口・発心門をくぐり、発心門王子に着くと、道者はこれまで使ってきた杖を発心門王子に献納しました。
本宮にたどり着く前に杖を献納してしまうのです。
不思議なしきたりです。本宮まであと少しというところまで来て杖を献納してしまうなんて。
ここから本宮までは杖なしで行けということかというと、そうではありません。
杖の献納、奉幣などを終えると、献納された杖に代わり、先達から新たに「金剛杖」が渡されます。
新しい金剛杖をついて道者は、本宮まで行き、熊野三山を巡り、下向していきました。
この杖の交換は何を意味しているのでしょうか。古い杖はどうなったのでしょうか。
古い杖はどうやら先達らの手によって音無川に流されたらしいです。杖を流して死後の安楽を祈る風習があったらしく、先達らによって菩提を弔われたようです。
中世、熊野は浄土の地とみなされ、熊野詣は「葬送の作法」をもって行われました。熊野詣は死門への旅だったのです。
新たに手渡された金剛杖。
金剛杖は四角に削られていて、その四つの面は「発心門・修行門・菩提門・涅槃門」という4つの門を表わしているそうです。
古くから葬送に関わっていた修験者。
修験者の葬送作法によると、亡者は、発心門・修行門・菩提門・涅槃門の四門をくぐることで成仏を果たすと考えられているそうです。
発心門王子で、今まで使っていた杖を献納し、発心門・修行門・菩提門・涅槃門の四門が表わされた金剛杖を渡されるということは、これから道者は発心門・修行門・菩提門・涅槃門の四門をくぐり、成仏を遂げるのだということを表わしているのでしょう。
次の水呑王子までは約30分。
(てつ)
2002.6.16 更新
2008.11.4 更新
2020.10.25 更新
参考文献
- くまの文庫4『熊野中辺路 古道と王子社』熊野中辺路刊行会
- 山本ひろ子『変成譜―中世神仏習合の世界』春秋社
発心門王子へ
アクセス:龍神バス(1日3便)・住民バス(1日1便)発心門王子行き、発心門王子バス停下車。
バスは「熊野本宮大社」や「道の駅奥熊野古道ほんぐう」の前で乗ることができますので、発心門王子から熊野本宮大社までの熊野古道を歩きたい方はご利用になると便利だと思います。
合う時間のバスがない場合はタクシーもあります。
発心門王子から熊野本宮大社までの熊野古道の距離はおよそ7km、所要時間は2時間30分ほどです。
駐車場:なし
発心門王子を通る熊野古道レポート