聖徳太子の創建と伝わる田辺の古刹
JR紀伊田辺駅から徒歩約25分。田辺の市街地と田辺湾を見下ろせる高台に立つ真言宗のお寺、高山寺。田辺の人々には「弘法さん」の名で親しまれているそうです。
聖徳太子の草創、弘法大師が中興したと伝えられますが、豊臣秀吉の紀州征伐で焼き討ちにされました。
江戸時代、文化年間(1804年~1818年)に建てられた多宝塔が美しいです。
また境内からは縄文時代早期の貝塚が発見されました。土器も出土され、高山寺式土器と名づけられました。
墓地には、熊野が誇る世界的博物学者南方熊楠や合気道の開祖植芝盛平(うえしばもりへい)のお墓もあります。
高山寺に隣接してあった糸田の猿神社(さるがみのやしろ)から熊楠は数多くの隠花植物を採集しましたが、明治41年(1908年)に合祀されて神木も伐採され、そのことが熊楠が神社合祀反対運動に立ち上がるきっかけとなりました。
縄文からの聖地
高山寺のある場所はお寺が建つはるか以前から聖地であったのだろうと思われます。
高山寺の境内には縄文時代早期に営まれた貝塚があります。縄文時代、海は今よりも内陸に入り込んでいました。その頃、この高山寺のある場所は海に向かって突き出た岬の突端部であり、そこに貝塚が営まれました。
貝塚は現代人の感覚だとゴミ捨て場のように思えますが、そうではないだろうと想像します。
岬のような突き出た地形の突端部は神聖な場所とされます。熊野地方でも突き出た地形の突端部に神社が置かれているのをしばしば目にします。
神聖な場所をゴミ捨て場にすることなどないだろうと思います。
狩猟採集により暮していた人々の心の中で、人間の食べ物になってくれる生き物の存在が非常に大きな部分を占めていたことでしょう。
人間に捕らわれて食べられた生き物が人間に恨みをいだきませんように。その魂が再び体を得てこの世に戻ってきますように。そして再び捕われて食べられてくれますように。貝殻や動物の骨は粗末に扱っていいものではなかったのだと思います。
貝塚は貝のお墓。貝の死をとむらい、再生を祈る場であったのであろうと私は想像します。
(てつ)
2009.5.28 UP
2016.5.11 更新
2019.12.29 更新
参考文献
- 松居竜五・月川和雄・中瀬喜陽・桐本東太=編『南方熊楠を知る事典』講談社現代新書
- 松居竜五・田村義也 編『南方熊楠大事典』勉誠出版
高山寺へ
アクセス:JR紀伊田辺駅から徒歩25分
駐車場:無料駐車場あり