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熊野三所神社(くまのさんしょじんじゃ)

和歌山県西牟婁郡白浜町744 瀬戸村:紀伊続風土記(現代語訳)

白良浜から見える森、ご神体は磐座

熊野三所神社

 白良浜の北側に突き出た権現崎の付け根の辺りに鎮座する熊野三所神社。
 白良浜からは鳥居が見え、境内は白砂の砂浜です。権現崎を間に置いて、南側が白良浜、北側が瀬戸湾となります。

 白良浜から見える権現崎のこんもりとした森が熊野三所神社の社叢(神社の森)で、県の天然記念物に指定されています。海に面する外縁部はウバメガシ・トベラ・ツバキ・ハマヒサカキ・クロマツなど潮風に強い木が生え、内部にはホルトノキ・クスノキ・スダジイなどが生える、海岸性の照葉樹林の典型です。権現崎には海沿いを歩く遊歩道がありますので、ゆっくり海や森を眺めながら歩くのもよいと思います。国の天然記念物に指定されている泥岩岩脈も権現崎の北側にあります。一周約20分です。

 熊野三所神社は江戸時代には三社権現社と呼ばれました。紀州藩の命により文化元年(1806年)から編纂が始まり天保十年(1839年)に完成した紀伊国の地誌『紀伊続風土記』の瀬戸村の項には次のように記されています(筆者による現代語訳)。

三社権現社  境内森山周八町

摂社 地主明神社、拝殿、舞台

村の西南にある。その地は別に海に突き出て島の形をなしている。一村の産土神で熊野三所権現を祀るという。境内に御腰掛石というのがある。斉明天皇がこの地に行幸のとき御腰を掛けなさった石であるという。

また火雨塚という穴がある。深さは知ることができない。人が作った穴のようだが何のために穿ったのかということを知る者はいない。その穴より一町余り北の磯を御舟谷という。その穴がこの地に通じていると言い伝える。御舟谷は斉明天皇行幸のときの古跡であろう。

腰掛石

 斉明天皇の腰掛石と呼ばれる長方形の石が本殿下にはあるそうです。また本殿の横には岩が置かれ、本殿背後の山にも大きな岩があります。もともとは巨石崇拝の社で熊野三山の信仰とは別物であったのでしょう。それが後に熊野信仰が盛んになると熊野三所権現を観請し、熊野三山の別宮的存在となりました。

火雨塚


 火雨塚(ひさめづか)という穴は、6世紀後半、古墳時代後期に築造されたと考えられる横穴式石室の古墳であることが判明しました。直径8m、高さ2mの円墳です。昭和47年(1972)に県の史蹟に指定され、その後の調査で石棺蓋石に人名と思われる線刻が発見されました。とても珍しい古墳です。

御船

 飛鳥時代に斉明天皇はじめ持統天皇・文武天皇が紀の湯(白浜温泉)に行幸した折、権現崎の北側(白良浜とは反対の側)に船を着けたことからその湾を「御船の谷」と称し(現在の瀬戸湾)、また熊野三所神社の森を「御船山」と称すると伝わります。

熊野三所神社

 三社権現社から熊野三所神社と社名を改めたのは、明治元年(1868年)。明治新政府により推し進められた神仏分離政策のためです。
 熊野三所神社の御祭神は熊野三所権現でしたが、現在の熊野三所神社の御祭神は、伊弉冉尊・速玉男命・事解男命。神仏分離令により権現という名の神様を祀ることができなくなりました。

 摂社として地主神社があり、その祭神は猿田彦命・天宇豆売命(あめのうずめのみこと)。
 末社の八坂神社の祭神は須佐之男命・稲田姫命。もうひとつある末社の恵比須神社の祭神は恵比須大神。
 例大祭は10月16日(18:00~)、17日(08:30~)。

昭和天皇の御座船

熊野三所神社 

 境内には「御座船奉安庫」という建物が建ち(右の写真)、その中には、一艘の白色の船が格納されています。
 昭和4年(1929)に昭和天皇が南紀行幸の際に乗船した、菊の御紋のついた御座船です。

 生物学者でもあった昭和天皇(1901~1989)は、南方熊楠(1867~1941)の粘菌研究に関心をもち、熊楠に粘菌学のご進講(しんこう:貴人に講義をすること)を求め、昭和4年に南紀行幸が実現されました。

 昭和天皇は京都帝国大学瀬戸臨海研究所を視察された後、研究所が用意した御座船に乗船して神島(かしま)という田辺湾に浮かぶ小島に上陸し、その島で熊楠と出会われました。

 神島は千年不伐の手付かずの自然が残された島で、亜熱帯性の植物に富む、菌類、粘菌の宝庫で、熊楠らの運動により保護されました。その神島に渡るために昭和天皇が乗船した御座船を熊野三所神社が研究所から払下げを受けて安置することとなり、そして90年以上経つ今も神社で大切に保存されています。

 「御船山」「御船谷」と天皇が乗った船にちなんだ地名の伝わる場所に昭和天皇の御座船が保管されているというのも、不思議な縁を感じさせます。

 進講の翌年、神島は和歌山県の天然記念物に指定され、行幸記念碑が建てられました。その碑には熊楠が進講の日の感激を詠んだ歌が刻まれています。

一枝も心して吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめでましゝ森ぞ

(訳)一枝も心して吹け、沖の風よ。我が天皇がお愛でになった森であるぞ。

 熊楠が愛し、昭和天皇が愛でた神島は、熊楠らの働きかけにより昭和11年(1936)に国の天然記念物に指定されています。
 その5年後の昭和16年(1941)に熊楠は75歳で生涯を閉じました。
 昭和37年(1962)、昭和天皇は南紀行幸した折に白浜の宿から神島を眺め、33年前に出会った熊楠を追憶し、歌を詠みました。

雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

(訳)雨に煙る神島を見て紀伊の国が生んだ南方熊楠を思う。

 熊楠の歌に対する返歌のようです。

南方熊楠と熊野三所神社

 南方熊楠は、田辺に居を定める2年前の明治35年(1902年)に6月から9月にかけての約4ヶ月間、湯崎(現在の白浜温泉)に滞在して藻類や菌類などの採集を行いました。熊楠が36歳のときのことです。熊楠は熊野三所神社のことを御船山権現、御船山神社などと呼んでおり、熊野三所神社の森をたびたび訪れました。

 この田辺湾は斉明天皇の御行幸ありし地にて、おぼろげながらその御故跡少なからず。現に瀬戸鉛山連合村の村社は実に見事な社殿とその後ろの神森の山あるなり。オガタマの木多し。……この山は希珍の菌茸多く生ず。……とにかく近海を航するもののはなはだつつしみ崇めし宮なり。山を御船山と申す。その山の風より考えるに斉明天皇が鉛山の湯に行幸のときの御蹟といささか信ぜらるるなり。

(白井光太郎宛南方熊楠書簡、昭和5年3月19日付『南方熊楠全集』第9巻)

 昭和天皇の南紀行幸の後、熊野三所神社境内に昭和天皇の行幸を記念して博物館を建設しようという計画が持ち上がりました。動物の標本を展示する自然博物館です。

新聞にて御承知の通り、かの行幸のとき御進講せりなど、法螺を吹きまわり、行幸地は田辺湾でも管轄地は和歌山なれば、自分の勤務する和歌山師範学校内に、記念博物館を建つべしと唱え、熊楠が館長になるなど広告し、募金にかかりしも、誰も信ずるものなく(小生毛利をして県会で質問せしめしに、県吏答うる能わず、今日に及べり)三年後の今日、なお金が集まらず。

よってまた当町中学校長と第一小学校長をして、記念博物館は田辺湾へ建つべきものなるに行幸に何の関係なき和歌山に建てしむるは不当なりとて白浜へ建て、その基金の募集せんとかかり候。

これは土地会社が土地を高く早く売らんためのペテン計策にて、初めは瀬戸の村社、三所権現社境内に建てんとかかかりしを、小生新聞で見て、この御船山は今日同様軍国大非常時(満州辺にありし日本人が唐の太宗に追いまくあられ、日本孤立とならんとせしなり)に、女帝の御身を以て、御船山で御軍議を廻らし給い、それより筑紫の朝倉の宮に渡らせ給い、まさに外国征伐にかからんとされしとき、神木を伐りし神罰にて崩御ありしと、日本紀に見え候。

その聖女帝が九十日も駐在させ給える御蹟なるに、動物を剥製したり、針でとめたり、腸を抜いたり、生きたる蛇や魚貝をアルコール漬にしたり、種々の不浄を事とする博物館を社の境内に建てるとは、まことに不埒の事と抗議書を知事へ贈りしより、一同大いにあわて出し、校長など陳謝に来たりなど大噪ぎなり。

(樫山嘉一宛南方熊楠書簡、昭和8年7月10日付『改訂南方熊楠書簡集』紀南文化財研究会)

 初めは和歌山市にある和歌山師範学校の敷地内にとの計画があって、それは実現できず、その後、熊野三所神社境内にとの計画が出てきました。この計画に熊楠は反対しました。

 神社という場所に動物の標本を作る行為はふさわしくないという理由です。熊楠の抗議によりこの博物館建設計画は取り止めになりました。

 行幸記念博物館は結局は別の場所に建設され、昭和14年(1939年)6月3日に開館。しかしながら昭和16年(1941年)12月8日に始まった太平洋戦により経営が立ちゆかなくなったようで、まもなく京都帝国大学が譲り受けて瀬戸臨海研究所構内に移転することとなります。

 森に包まれた熊野三所神社の境内に立っていると、すぐ横にリゾートビーチがあることを忘れるほどです。今も熊野三所神社の境内は清らかな空気に包まれています。

(てつ)

2003.4.3 UP
2020.2.7 更新
2022.2.2 更新
2024.4.14 更新

参考文献

熊野三所神社へ

アクセス:JR白浜駅から明光バス新湯崎または三段壁行きで12分、白浜バスセンター下車
駐車場:駐車場あり

白浜町の観光スポット