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熊野本宮大社

くまのほんぐうたいしゃ
和歌山県田辺市本宮町本宮1110

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熊野本宮大社

熊野三山の中心

古くは「熊野坐(くまのにます)神社」という名で呼ばれた熊野本宮大社。熊野三山の中心で、全国に3000社以上ある熊野神社の総本宮です。

34回と最多の熊野御幸を行った後白河上皇は、『源平盛衰記』によると、本宮へは34回訪れていますが、新宮と那智は15回。
新宮と那智を略して本宮だけを詣でて熊野御幸を済ますこともしばしばありました。

阿弥陀の浄土

熊野は神仏習合の霊場として栄えました。
阿弥陀如来を本地仏とした家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)を主神とする熊野本宮は、阿弥陀の極楽浄土とみなされ、その社殿は「証誠殿」と呼ばれました。「証誠殿」とは、念仏者の極楽往生を証明する社殿という意味です。

平安時代の院政期、白河上皇9回、鳥羽上皇21回、後白河上皇34回。
鎌倉時代に入って、御鳥羽上皇が28回。
頻繁に行われた熊野御幸も、熊野を浄土の地と信仰してのこと。願うは極楽往生。

また、鎌倉時代に興り、日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新仏教「時衆(じしゅう。のちに時宗)」の開祖、一遍上人は熊野本宮の地である種の宗教上の覚醒を得ました。一遍上人自らが「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」と述べています。

南北朝から室町時代にかけて熊野信仰を広めたのは、一遍上人を開祖とする時衆の念仏聖たちでした。時衆の念仏聖たちの活動により、老若男女庶民による「蟻の熊野詣」状態が生み出されました。

明治の水害で流出

明治22年(1889年)8月の水害時まで熊野本宮大社は熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にありました。

大斎原には12の社殿やいくつかの境内摂末社、神楽殿や能舞台などがあり、現在の本宮大社の8倍の規模を誇っていました。

2年後の明治24年(1891年3月)に流出を免れた上四社を現在ある高台に遷座。流出した中四社・下四社と境内摂末社は旧社地「大斎原」の2基の石祠に祀られています。右の石祠に中四社・下四社を祀り、左の石祠に元境内摂末社を祀っています。

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