ダルに憑かれる
山では「ダル」に憑かれるということがたまにあるそうです。
「ダル」、「ダリ」あるいは「ヒダル」ともいわれる悪霊の一種。
ダルに取り憑かれると、急に脱力感に襲われ、意識が朦朧とし、歩くこともできなくなってしまいます。
これは、山で飢えて死んだものが悪霊になって、人に取り憑くのだといわれています。日本全国にその伝説は分布していますが、特に熊野を含む紀伊半島で多く伝えられているようです。
空腹のときに憑かれやすく、ダルに憑かれたときは米を一粒でも食べるとダルが退くと熊野辺では伝えられています。
そのため、昔の人は、山へ行って弁当を食べるときは、飯粒を一粒でもいいから残しておくようにしていたそうです。飯粒がないときには、手のひらに米という字を書いてそれを食べる真似をする。こうしても直ったそうです。
ダルに憑かれる場所は山や硲(さこ)でたいがい決まっているといわれています。
南方熊楠のダル体験
口熊野・田辺に在住した世界的博物学者南方熊楠(みなかたくまぐす)も熊野山中で取り憑かれたことがあると記しています(以下は私の口語訳)。
予は明治三十四年冬より2年半ばかり那智山麓におり、雲取をも歩いたが、いわゆるガキに付かれたことがある。寒い日など行き倒れて急に脳貧血を起こすので、精神茫然として足が進まず、一度は仰向けに倒れたが、幸いにも背に負うた大きな植物採集 胴乱が枕となったので、岩で頭を砕くのを免れた。それより後は里人の教えに随い、必ず握り飯と香の物を携え、その萌しのある時は少し食べてその防ぎとした。
南方熊楠は、同じ文章中に、菊岡沾涼の『本朝俗諺志』という書物からダルに関する話を引用しています。こちらも私の口語訳で紹介します。
紀伊国熊野に大雲取、小雲取という二つの大山がある。この辺に深い穴が数カ所あり、手頃な石をこの穴に投げ込むと鳴り響いて落ちていく。2、3町(1町は約109m)、行く間、石の転がる音が鳴りつづけているという限りのない穴である。
その穴に餓鬼穴というのがある。ある旅の僧がこの場所で急に飢餓感に襲われ、一歩も足を動かせないほどになった。ちょうどそのとき、里人がやってくるのに出会い、「この辺で食べ物を求められるところはありますか、ことのほか腹が減って疲れています」というと、里人は「途中の茶屋で何か食べなかったのですか」という。
「だんごを飽きるまで食べました」と僧はいう。「ならば道の傍らの穴を覗いただろう」と里人。「いかにも覗きました」と僧がいうと、「だからその穴を覗くと必ず飢えを起こすのです。ここから7町ばかり行くと小さな寺があります。油断したら餓死してしまいます。木の葉を口に含んで行きなさい」と里人。
教えのようにして、かろうじてその寺へ辿り着き、命が助かった、という。(同上)
「大雲取越え、小雲取越え」は那智から本宮へと向かう熊野参詣道(熊野古道)。「死出の山路」とも呼ばれ、その道を歩いていると、ダルに取り憑かれたり、亡くなったはずの肉親や知人に出会ったりするという不思議な現象に遭遇するといわれています。
後鳥羽上皇の熊野御幸にお供した藤原定家は、日記『後鳥羽院熊野御幸記』に、
終日嶮岨を超す。心中は夢の如し。いまだかくの如きの事に遇わず。雲トリ紫金峰は手を立つるが如し。
などと「大雲取越え、小雲取越え」のことを記しています。よっぽどしんどかったのでしょう。
疲労困ぱいのなか、幻覚を見るのでしょうか。昔は行き倒れになった人も多かったらしいです。私も歩いたことがありますが、ちょっときつかったです。
ダルの正体?
しかし、ダルに憑かれるなんてことは、昔のことで、いま現在はもうないだろうと考えていましたが、日本テレビ系のテレビ番組「特命リサーチ200X」(1999.7.4に放映)でダルのことを取り上げているのを見てびっくり(番組では「ひだる」と呼んでいました)。現在でもダルに憑かれるということはあるのですね。狐憑きといっしょで、昔はよくあったけれど今はもうない現象だと思っていたので、驚きました。
「特命リサーチ200X」では、近年に大台ガ原(奈良県と三重県の県境をなす台高山系の主峰のひとつ。最高峰日出ガ岳は標高1695m)にてダルに憑かれたと思われる事例をいくつかあげ、その共通事項として次のような点を指摘。
1.何かに取り憑かれたと感じるが誰一人として姿を目撃していない。
2.直前に何か異様な気配を感じる。
3.意識がもうろうとし体に急激な脱力感を感じる。
4.それは2~3時間で消え去り後遺症は残さない。
以上のことからガス中毒ではないかと推測。大台ガ原でガス濃度の計測を行ったところ、大気中の二酸化酸素濃度が8250ppm(通常の大気中に含まれる濃度が400ppmだというから、なんと通常のおよそ20倍!)だった場所があったそうです。
落ち葉などの有機物が腐食することによって二酸化炭素は発生しますが、ふつうは風に吹かれて、拡散し、通常の何倍もの濃度になることはありません。
しかし、窪地などガスの溜まりやすい場所で二酸化炭素が発生した場合、拡散せずに一所に溜まり、その場所での二酸化酸素濃度が濃くなるということがあります。
そこへ人が入り込み、二酸化炭素を大量に吸い込むと、心拍数が増加し、脱力感、意識障害などの中毒症状が現れます。この二酸化炭素中毒の症状は、ダルに取り憑かれたという人の症状に一致しています。
昔の人々が「ダルに憑かれる場所は山や硲でたいがい決まっている」といってきた、その決まった場所というのは、窪地など、発生した二酸化炭素が拡散せずに一所に溜まる場所、ということなのではと想像しました。
このような山での二酸化炭素中毒の事故は、日本全国、有機物が腐食する場所なら、どこでも起こりえますが、とくに二酸化炭素が発生する条件(1.豊富な落ち葉などの有機物 2.暖かい気温 3.降雨量が多く湿度が高い、など)が整っている紀伊半島の山々では、とくに二酸化炭素中毒事故の発生件数が多かったのではないかと思われます。そのため、紀伊半島ではとくに多くダルについて語られてきたのでしょう。
ダル(山での二酸化炭素中毒)を避けるには、
1.ガスが溜まりやすい窪地は注意が必要。
2.万が一急激な脱力感に襲われた時は、顔を高い位置に保って高い場所に避難する。
3.単独での登山は避ける。
とのことです。熊野の山ではダルに憑かれないように気をつけましょう。
(てつ)
2003.6.14 更新
参考文献
- きのくに民話叢書1『熊野・本宮の民話』和歌山県民話の会
- 中沢新一責任編集・解題『南方熊楠コレクション〈第2巻〉南方民俗学』河出文庫 引用箇所は312ページ