■ 熊野の説話

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◆ 小栗判官7 小栗復活、湯の峰温泉の霊験


 さて。

 車の檀那が出て来たので、上り大津を引き出した。関山科に着く。もの憂き旅に粟田口、都の城に車が着く。東寺、さんしや(不詳)、四つの塚(京都市南区四ツ塚町)、鳥羽に恋塚、秋の山、月の宿りはなさないけれども、桂の川を、えいさらえいと、引き渡し、山崎、千軒を引き過ぎて、これほど狭いこの宿を誰が広瀬とつけたやら。塵をかき流す芥川、太田の宿を、えいさらえいと、引き過ぎて、なかしまや(不詳)、三ほうしの渡り(不詳)を引き渡し、お急ぎになると、ほどもなく天王寺に車がを着く。

 七不思議のありさまを拝ませたくはございますが、耳も聞こえず、目も見えず、ましてや、ものを申すこともないので、帰りに静かに拝めよと、阿倍野五十町を引き過ぎて、住吉四社の大明神、堺の浜に車が着く。松は植えないけれど小松原(和歌山県御坊市湯川町小松原)、わたなべ(不詳)、南部(みなべ。和歌山県日高郡南部町)を引き過ぎて、四十八坂(不詳)、なか井坂(不詳)、いとか峠(不詳)蕪坂(かぶらさか。和歌山県海草郡下津町沓掛)、鹿背(ししがせ。和歌山県有田郡広川町と日高郡由良町の境)を引き過ぎて、心を尽くすのは仏坂(不詳)、こんか坂(不詳)で、こんか坂に車が着く。こんか坂にまで着いたので、これから湯の峯へは車道が険しいので、ここで餓鬼阿弥をお捨てになる。

 大峰入りの山伏たちが百人ばかりさんざめいてお通りになる。この餓鬼阿弥をご覧になって、「さあ、この者を熊野本宮湯の峯に入れてとらせよう」と、車を捨てて、籠を組み、この餓鬼阿弥を入れ申して、若先達の背にむんずと負いなさって、上野原を出発して、日にち積もって四百四十四日めには、熊野本宮湯の峯にお入れになる。
 何しろ合図の湯のことなので、七日お入りになると、両目が開き、十四日お入りになると、耳が聞こえ、二十一日お入りになると、早くもものをお申しになり、その後、四十九日めには六尺二分の豊かな元の小栗殿とおなりになる。

 この小栗判官の死と再生の物語は、あらゆる病いを治癒するとされた湯の峰の湯の聖性を全国の人々に知らしめました。
 この物語により、熊野本宮の信仰は湯の峰の温泉と結びつけられ、熊野本宮の「癒しの地」としての聖なるイメージが全国の人々の心に深く浸透していったのです。

 小栗判官の物語は、難病に苦しむ人々に希望を与えたことでしょう。熊野本宮に詣で、湯の峰の霊泉につかれば、治癒の奇跡が訪れることもあり得るのだと。
 湯の峰は本宮の湯垢離場として栄え、ハンセン病など難病の患者たちが治癒の奇跡を求めて熊野本宮に集まり、病いで傷ついた心身を湯の峰の霊湯で癒したのでした。
 時代はずっと降りますが、湯の峰温泉には、大正の初めころまで、ハンセン病患者ばかりを泊める宿があったそうです。

 小栗殿は夢から覚めた心地になって、熊野三山、三つの御山を御にゅうとう(入湯か?)なさるが、熊野権現がこれをご覧になって、「あのような大剛の者に、金剛杖を買わせなければ、末世の衆生に買う者はあるまい」と、山人に身を変化して、金剛杖を二本お持ちになり、「のういかに、修行者。熊野へ詣った印に何をしようぞ、この金剛杖をお買いなされ」との仰せである。
 小栗殿は、かつての威光を失せずに、「さて、それがしは、海道七か国を、餓鬼阿弥と呼ばれて、車に乗って引かれたのさえ、無念に思っているのに、金剛杖を買えとは、それがしを調伏する気か」との仰せである。

 権現はこれをお聞きになって、「いや、そうではございませぬ。この金剛杖と申する物は、天下に在りしその折に、弓とも楯ともなって、天下の運を開く杖であるので、金がなければただでとらせる」と、おっしゃって、権現は二本の杖をあそこに捨て、かき消すように見えなくなった。
 小栗はこれをご覧になって、「今のは、権現様を手に取り拝み申したということか。ありがたや」と、三度の礼拝をなされ、一本はついて都にお帰りになる。

 2本の金剛杖のうち、1本をついて都に帰る。それでは、もう1本は? というと、僕の訳している本の本文ではまったく説明がありません。
 しかし、おそらく、もう1本の杖は音無川に流されたのでしょう。

 かつて熊野本宮大社は、音無川、岩田川、熊野川の3つの川の合流点の「
大斎原」と呼ばれる中洲にありました。
 さながら大河に浮かぶ小島のようであったといわれます。熊野川は別名、尼連禅河といい、音無川は別名、密河といい、2つの川の間の中洲は新島ともいったそうです。

 江戸時代まで音無川には橋が架けられず、参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉しなければなりませんでした。これを「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」といい、参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入ることはできませんでした。

 精進潔斎を眼目としていた熊野詣の道中において、音無川は本宮に臨む最後の垢離場(こりば。垢離とは冷水で身を浄めること)にあたります。参詣者は、音無川を徒渉し、足下を濡らして宝前に額づき、夜になってあらためて参拝奉幣するのが作法でした。
 そのため、かつては、音無川は、熊野詣といえばその名が連想されるほどに知られた川でした。

 その音無川に杖を流す。
 そのような風習がかつてあったようなのです。

 中世、熊野詣の参詣者は出発に際し、先達(せんだつ。熊野詣の案内人。修験者が務めました)から1本の杖を与えられました。この杖をついて、道者は熊野への道を歩きました。
 そして、この本宮の聖域の入り口・発心門をくぐり、
発心門王子に着くと、道者はこれまで使ってきた杖を発心門王子に献納しました。
 本宮にたどり着く前に杖を献納してしまうのです。
 不思議なしきたりです。本宮まであと少しというところまで来て杖を献納してしまうなんて。

 ここから本宮までは杖なしで行けということかというと、そうではありません。
 杖の献納、奉幣などを終えると、献納された杖に代わり、先達から新たに「金剛杖」が渡されます。発心門王子において、杖の交換が行われたのです。
 新しい金剛杖をついて道者は、本宮まで行き、熊野三山を巡り、国に帰っていきました。

 では、古い杖はどうしたのか、というと、どうやら先達たちの手によって音無川に流されたらしいのです。杖を流して死後の安楽を祈る風習があったらしく、先達たちによって菩提を弔われたようです。
 中世の熊野詣にはこのような風習があったので、小栗のもう1本の金剛杖は、おそらくは死後の安楽を祈って音無川に流されたものと思われます。

 と、考えていたところ、奈良絵本の『をくり』では、この2本の杖は金剛杖ではなく、杉杖とあり、熊野権現が杖を渡すときに、「1本は音無川に流せば舟となり、もう1本は帆柱となり行きたい所へ行くことができる」と言って、消え失せられたと語られているそうです。
 そして、小栗は2本の杖をいただき、1本の杖を音無川に流してみると、権現の言葉通りに舟になり、もう1本を帆柱に立てて国に帰られた、ということだそうです。

 さて、話を『小栗判官』に戻して、

 それとなく父兼家殿の館を見て通ろうとお思いになり、御門の内にお入りになり、「斎料(ときりょう。施し)を」とお乞いになる。
 その時の番は左近の尉が仕っていた。左近はこれを見るがいなや、「のういかに、修行者。御身のような修行者は、この御門の内へは禁制である。早くお出になれ。早くお出にならないものならば、この左近の尉が追い出すぞ」と、持っていたほうきで打って追い出した。
 小栗はこれをご覧になって、「左近が打つとは憎らしい。しかし、打つのも道理、知らぬも道理」と、お思いになり、八町の原を目指して、お出になった。

 折しも東山の伯父御坊は、花縁行道(おそらく、庭の花を眺めながら縁を巡り歩くこと)をなされていらっしゃるが、今の修行者をご覧になって、兼家殿の御台所を近くに寄せて、「いかに、御台所。われら一門にだけ、額には『よね』という字が三行座り、両眼に瞳が四体あるかと思えば、今の修行者にもございました。ことに今日は小栗の命日ではございませんか。呼び戻し、斎料を取らせよう」との仰せである。

 左近はこれを聞いて、「承りました」と、ちりぢりと走り出して、「のういかに、修行者。お戻りくだされ。斎料を取らせよう」と申された。
 小栗は殿は、かつての威光を失せずに、「さて、それがしは一度追い出された所へは参らぬことにしている」との仰せである。
 左近はこれを承って、
 「のういかに、修行者。御身がそうして諸国修行をなさるのも、ひとつは人をも助けよう、また御身も助かりたいとお申しあることではございませんか。いま、御身がお戻りでなければ、この左近は死ぬよりない。お戻りになって、斎料もお取りになり、この左近の命も助けてくだされ。修行者」と申すのである。
 小栗はこれをお聞きになって、名乗りたいものだとお思いになり、大広間にさしかかり、間の障子をさらっと開け、八分の頭を地につけて、「のういかに、母上様。小栗でございます。三年間の勘当をお許しください」。
 御台所は十分に考えることなく、このことを兼家殿にかくかくしかじかとお語りになる。

 兼家はこれをお聞きになり、
 「軽率なことをお申しある御台だな。我が子の小栗と申すは、これよりも、相模の国、横山の館にて毒の酒で責め殺されたと申するが、そうではあるが、修行者。わが子の小栗と申する者には、幼い折から教えて来た調法(処理の仕方)がある。失礼ながら、受けてごらんぜよ」
 と、五人張りの強い弓に十三束の矢をもって、間の障子の向こうからよっ引いて、ひょうと放す矢を、一の矢を右手で取り、二の矢を左手で取り、三の矢はあまりに間近く来るので、向か歯でがちっと噛み止めて、三筋の矢をおし握り、間の障子をさっと開け、八分の頭を地につけて、
 「のういかに、父の兼家殿。小栗でございます。三年間の勘当、お許しください」
 兼家殿も母上も一度死んだわが子に会うなどとは、優曇華(うどんげ。インドのあるといわれれる木。三千年に一度、花が咲き、その花が咲くときに仏が世に出ると信じられた)の花を見るようにまれなことと、喜び、車を五両、花で飾り立てて、親子連れで帝の御番にお参りになる。

 帝はこれをご覧になって、「誰と申すとも、小栗ほどの大剛の者はよもやあるまい。ならば、領地を与えてとらせよう」と、五畿内五か国の永代の薄墨の御綸旨、御判をお与えになるのである。
 小栗はこれをご覧になって、「五畿内五か国は欲しくもありません。美濃の国に替えてくださいませ」と、申された。
 帝はお聞きになって、「大国を小国に替えろとの望み、思う子細があるのだろう。それなら、美濃の国(今の岐阜県南部)を馬の飼料に取らせよう」と、重ねての御判をお与えになるのである。
 小栗はこれをご覧になって、ありがたいことだと、山海の珍物、国土の菓子を調えて、たいそう喜びなさった。

 高札を書いて、お立てになる。
 「小栗に奉公申す者がいるならば、領地を与える」と、高札に書いて、お立てになれば、われも小栗殿の奉公を申そう、判官殿の手の者にと、なか三日のその間に、三千余騎の家来を集めたという。
 三千余騎の家来をともなって美濃の国へ領地入りとのお触れが出る。
 三日先の宿は君の長殿に決めてある。

 君の長殿はご覧になって、百人の流れの姫(遊女)をひとつ所へ押し集め申し、「流れの姫たちに申すことがある。ここへ都から新しく領地入りする国司様がいらっしゃるので、そのもとへ参り、おなぐさめ申して、どんな領地でも賜って、君の長夫婦もよきに養っておくれ」。

 十二単(ひとえ)で身を飾り、今か、今か、とお待ちになる。
 三日の後、犬の鈴、鷹の鈴、くつわの音がさざめいて、上下華やかに悠々と、君の長殿にお着きになる。
 百人の流れの姫は、我れ先に、我れ先に、と小栗のもとへ参り、おなぐさめ申せども、小栗殿は少しもお勇みしない。
 君の長殿を御前にお呼びになり、「やあ、いかに、夫婦の者どもよ。ここの内の下働きの水仕女に、常陸小萩という者があるか。酌をさせい」との仰せである。

 君の長は、「承りました」と、常陸小萩のもとへ参って、「のういかに、常陸小萩。御身の見目形が美しいのが都の国司様へ漏れ聞こえたらしい。お酌に立ていとの仰せがあったので、お酌に参れ」との仰せである。
 照手はこれをお聞きになって、「愚かなことを長殿はおっしゃいます。いま、お酌に参るくらいなら、とうの昔に流れを立てています。お酌には参りません」と申した。

 君の長はお聞きになって、
 「のういかに、常陸小萩。さても御身は、嬉しいことと悲しいことは、早く忘れるものよな。以前、餓鬼阿弥と申して、車を引く折、暇は取らすまいと申していると、将来、君の長夫婦の身の上に大事があろう、その折は、身替わりに立とうと申した、その一言の言葉により、慈悲に情けをあい添えて、五日の暇を取らせたが、いま、御身がお酌に参らねば、君の長夫婦の者どもは死ぬより他ない。何はともあれ、取りはからい申せ。常陸小萩」と申した。

 照手はこれをお聞きになり、一句の道理に詰められて、何ともものはおっしゃらないで、「本当に、私が以前、車を引いたのも、夫の小栗の御ためである。また、いま、お酌に参るのも夫の小栗の御ためである。深き恨みを召されるな。変わる心のあるにこそ、変わる心はないほどに(うまく訳せませんが、心変わりをしたのではないという意味だと思います)」と、心の中でお思いになり、「のういかに、長殿様。そういうことでございますならば、お酌に参りましょう」との仰せである。

 君の長はお聞きになり、「さても嬉しいことだ。そういうことであるならば、十二単で身を飾れ」と申すのである。
 照手はこれをお聞きになって、「愚かなことを長殿はおっしゃいます。流れの姫とあれば十二単で身を飾りましょうが、下働きの水仕女とあるからには、そのままの姿で参りましょう」と、たすきがけで、前垂れをした格好で、銚子を持って、お酌にお立ちになる。

 小栗はこれをご覧になって、「常陸小萩とは御身のことであられるか。常陸の国の誰の御子か。お名乗りあれ、小萩殿」。
 照手はこれをお聞きになり、「さて、私は主人の命令でお酌に参っただけです。はじめてお会いしたあなた様と懺悔物語に参ったのではありません。酌がいやなら、待ちましょうか」と、銚子を捨てて、お酌をお止めになる。

 小栗はこれをご覧になって、
 「まことに道理だ。小萩殿。人の先祖を聞く折は、わが先祖を語るものよ。さて、こう申すそれがしを、いかなる者と思われておられるか。
 さて、こう申すそれがしは、常陸の国の小栗と申す者であるが、相模の国(今の神奈川県)の横山殿の一人姫、照手の姫に恋をして、押し入って婿入りしたのが罪となり、毒の酒にて責め殺さたが、十人の殿原たちの情けにより甦りつかまつり、さて、餓鬼阿弥と呼ばれて海道七か国を車に乗って引かれる、その折に、『海道七か国に、車を引いた人は多くとも、美濃の国、青墓の宿、万屋の君の下働きの水仕女、常陸小萩という姫、青墓の宿から上り大津や関寺まで引いてさしあげた。熊野本宮、湯の峯にお入りになって、病い本復したならば、必ずお帰りの際には、一夜の宿を万屋にお取りくだされ。かえすがえす』と、お書きになった胸の木札はこれであると、照手の姫に差し上げて、この御恩賞の御ためにここまでお礼に参っているのです。常陸の国の誰の子か。お名乗りあれ、小萩殿」

 照手はこれをお聞きになり、何ともものもおっしゃらないで、涙にむせていらっしゃいます。
 「いつまでものを隠しましょう。さて、こう申す私も、常陸の国とは申しましたが、常陸の者ではございません。相模の国の横山殿の一人姫、照手の姫でございますが、人の子を殺しておいて、我が子を殺さねば、都の聞こえもあることなのでとお思いになり、鬼王・鬼次の兄弟の者どもに沈めてまいれとお申し上げておりましたが、兄弟の情けによって、あちらこちらと売られて、あまりのことの悲しさに静かに数えてみると、四十五の店に売られて、この長殿に買い取られ、以前、流れを立てぬ(遊女にならぬ)その咎に、十六人で仕る下働きの水仕事を私一人で仕っております。御身に会えて嬉しい」

 小栗はこれをお聞きになり、君の長夫婦を御前にお呼びになり、「やあいかに、夫婦の者どもよ。人を使うにもやり方があるぞ。十六人の下働きの水仕事が一人でできるものか。汝らのような邪険な者は死刑だ」との仰せである。
 照手はこれをお聞きになり、
 「のういかに、小栗殿。あのような慈悲第一の長殿にどんな領地でも与えてくださいませ。それをなぜかと申し上げると、御身が以前、餓鬼阿弥と申していたときに、私が車を引いたその折、三日の暇を乞うたところ、慈悲に情けをあい添えて、五日の暇をお与えになった、慈悲第一の長殿にどんな領地でも与えてくださいませ。夫の小栗殿」との仰せである。

 小栗はこれをお聞きになり、「そういうことであるならば、御恩の妻に免じて許そう」と、美濃の国、十八郡を、一色しんたい(?)、総政所を君の長殿にお与えになるのである。
 君の長は承って、ありがたいことだと、山海の珍物、国土の菓子を調えて、たいそう喜んだ。
 君の長は、百人の流れの姫の、その内を三十二人選りすぐり、玉の輿にとって乗せ、これは照手の姫の女房として差し上げる。それ、女人と申すものは、氏なくて玉の輿に乗るとは、ここの譬えを申すのである。

 常陸の国へ領地入りをなされ、七千余騎をともなって、横山攻めとお触れが出る。
 横山はあっと肝を潰し、「小栗が甦りつかまつり、横山攻めだと。ならば、城郭を構えよ」と、空堀に水を入れ、逆茂木を引かせて、用心きびしく待っていた。
 照手はこれをお聞きになり、夫の小栗のもとにいらっしゃって、
 「のういかに、小栗殿。昔から伝えて聞くことに、父の御恩は七逆罪(不詳)、母の御恩は五逆罪(不詳)、十二逆恩を得ただけでも悲しいと思うのに、いま、私が世に出たといっても、父に弓を引くことはできません。小栗殿。明日の横山攻めをお止めくださいませ。それがいやならば、横山攻めの門出に私を殺して、その後に横山攻めはなさってくださいませ」
 小栗はこれをお聞きになり、「そういうことであるのならば、御恩の妻の免じて横山攻めは取り止めよう」との仰せである。

 照手は不十分にお思いになり、そういうことであるならば、夫婦の仲でありながら、御腹いせを申そうと(?)、秘密の書状を書いて、横山殿にお送りになる。
 横山は、これをご覧になって、さっと広げて、拝見する。
 「昔から今に至るまで七珍万宝の数の宝よりわが子に勝る宝はないと、今こそ思い知らされた。今は何を惜しもうか」と、十駄の黄金に鬼鹿毛(おにかげ)を添えて小栗殿に差し上げる。こうなったのも、そもそも三男のしわざであるといって、三郎には七筋の縄をつけ、小栗殿のもとにお引かせになる。

 小栗はこれをご覧になって、恩は恩、仇は仇で報いるべし。十駄の黄金で、黄金御堂と寺を建て、鬼鹿毛の姿を真の漆で固めて、鬼鹿毛を馬頭観音としてお祀りになる。牛は大日如来の化身としてお祀りする。こうなったのも、そもそも三男のしわざであるといって、三郎には七筋の縄をつけ、小栗殿にお引かせになる。
 こうなったのも、そもそも三男の三郎のしわざであるといって、三郎を荒簀(あらす)に巻いて、西の海にお沈めになされた。舌先三寸の操りで五尺の命を失うことを悟らなかった、はかなさよ。
 それから、ゆきとせが浦にお渡りになり、売りはじめた姥を、肩から下を地に埋め、竹のこぎりで首をお引かせになる。太夫殿には領地をお与えになった。

 それから、小栗殿は常陸の国にお戻りになり、棟に棟、門に門を建て、富貴万福、二代にわたる長者としてお栄えなさる。その後、生者、必滅の習いで、八十三の御ときに大往生をお遂げなさる。神や仏が一所にお集まりなさって、これほどまでに真実に大剛の弓取りを、さあ、神としてお祭りし、末世の衆生に拝ませようと、そのために、小栗殿を美濃の国、安八の郡(あんぱちのこおり)墨俣(すのまた)の「垂井(たるい)おなこと」の神体、正八幡、荒人神としてお祭りになる。
 同じく、照手の姫をも、十八町下(しも)に「契り結ぶの神」としてお祭りになる。

 これにて、墨俣「垂井(たるい)おなこと」の正八幡の御本地とともに「契り結ぶの神」の御本地も語り納めでございます。
 土地も繁盛し、御代もめでたく、国も豊かに、めでたいことでございます。

 と、これにて、墨俣の正八幡(現八幡神社。岐阜県安八郡墨俣町墨俣)と契り結ぶの神(現結神社。安八郡安八町西結)、二柱の神の縁起を語る『小栗判官』の物語はお仕舞いです。

 最後に残酷な復讐シーンがありますが、説経では、恩は恩で返し、仇は仇で返すという倫理観が徹底されています。
 「小栗判官」だけでなく「山椒太夫」「俊徳丸」などの主人公たちも、最後の場面で、救いの手を差し伸べてくれた者たちには手厚く報い、苦難を与えた者たちには律儀なまでに復讐を遂げます。

 横山の三男の三郎は小栗殺害のはかりごとをめぐらした人物。この人物のために小栗は殺され、10人の家来も殺されました。姥は人身売買をしているわけですよね。
 そのような人物は殺されて当然というか、殺されてほしい。殺されなければ気がおさまらない。それが普通の人々の一般的な感情だったのでしょう。

 人の多く集まる社寺の前など街頭で、庶民相手に仏の教えを広めるために語られた物語が説経です。その物語には聞き手である普通の人々の願望が反映されているのだと思います。
 現実の世界では悪人たちが罰も受けずに羽振りをきかせているかもしれないけれど、そんな世界はおかしい。
 善人は報われ、悪人たちが罰されて殺される。そのような世の中であってほしいという聞き手たちの願望を受けて、結末に復讐シーンが語られるのだと思います。

 小栗は、横山の三男をす巻きにして海に沈め、照手の身を売った姥の首を竹のこぎりで切りました。
 この復讐場面を聞くまでは、小栗が復活し、照手と再開できて、めでたいわけなのだけれども、聞き手たちの心のどこかにもやもやするものがあったんでしょうね。
 復讐場面を聞いて、初めて聞き手たちはすっきりと「めでたし、めでたし」という気分になったのだと思います。

(てつ)

2002.12.17 UP
2002.12.20 更新

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 ◆ 参考文献

室木弥太郎 校注『説経集』新潮日本古典集成
荒木繁・山本吉左右編注『説経節 山椒太夫・小栗判官他』東洋文庫 平凡社
近藤ようこ『説経 小栗判官』白泉社
中瀬喜陽『説話世界の熊野―弁慶の土壌』日本エディタースクール出版部

別冊太陽『熊野 異界への旅』平凡社

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■小栗判官
1 深泥ケ池の大蛇
2 照手姫
3 人喰い馬
4 小栗の最期

5 水の女
6 餓鬼阿弥
7 小栗復活

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