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平家物語 建春門院滋子の舞

後白河院の妃・建春門院滋子の熊野本宮での舞の奉納

1 平清盛の熊野詣 2 藤原成親の配流 3 成経・康頼・俊寛の配流 4 平重盛の熊野詣
5 以仁王の挙兵 6 文覚上人の荒行 7 平清盛出生の秘密 8 平忠度の最期
9 平維盛の熊野詣 10 平維盛の入水 11 湛増、壇ノ浦へ 12 土佐房、斬られる
13 平六代の熊野詣 14 平忠房、斬られる

建春門院滋子の舞


 建春門院 滋子(けんしゅんもんいん しげこ)。
 平清盛の妻の時子の妹で、後白河院の妃になり、高倉天皇の生母となります。
 記録に見られる建春門院滋子の熊野詣の回数は4回。後白河院と一緒に熊野を詣でています。

 『平家物語』長門本には、建春門院が熊野本宮で舞の奉納をしていると、突然大雨が降って来て、それにもかかわらず、建春門院は少しもたじろがずに舞を続けたというエピソードが書かれています。

『平家物語』長門本巻二より現代語訳

同年(※安元2年)月8日、建春門院がお隠れになられた。御年35。
建春門院は贈左大臣平時信の御娘である。後白河法皇の女御、当帝高倉院の御母儀である。

何年か前に不例の御願を果たそうとして、御歩行にて御熊野詣をなされた。40日で本宮にお着きになられて、熊野権現を楽しませるために、胡飲酒(※こんじゅ:雅楽の舞曲。胡国の王が酒に酔って舞った姿を舞にしたものと伝えられる)という舞を舞われていらっしゃったところ、にわかに大雨が降ってきた。けれども建春門院は舞をとどめず、雨に濡れながら舞った。せんじを返す(※?)舞なので、権現もお愛でになられたのではなかろうか。

去年の春の頃より御身の病で苦しまれ、世の中をつまらなくお思いになられていたが、先月の10日に院号を御辞退なされ、今日の朝に御出家なさって、夕方に無常の道に赴かれになられた。

院の御所の中の御歎きは申し上げるのも愚かである。天下に諒闇(※りょうあん:天皇が父母の崩御にあたり喪に服する期間)の宣旨を下される。これによって御孝養のために殺生禁断を行われた。

 (現代語訳終了)

建春門院滋子 について

 平家と後白河院を繋ぐ役割を果たしていたのが、建春門院滋子。
 もともと高倉天皇の擁立という目的のために繋がっていた平家と後白河院の提携関係は建春門院の死によって崩れ、建春門院の死からわずか1年後に鹿の谷事件が起こりました。

 35歳という若さでなくなった建春門院滋子。もっと長生きしていたら歴史は違ったものになっていたかもしれません。

 建春門院中納言(藤原定家の同母姉。建春門院滋子に仕えた)の日記『たまきはる』には「あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか(ああ美しい、この世にはこのような人もいらしゃったのか)」と記され、建礼門院徳子(平清盛の二女、高倉天皇の中宮)に仕えた右京大夫の私家集『建礼門院右京大夫集』には「言ふ方なくめでたく、若くもおはします(言葉にできぬほど美しく、若々しくいらっしゃる)」と記されています。

 『たまきはる』によると、建春門院滋子は折に触れてお付きの女房達に「女はただ心から、ともかくもなるべき物なり。親の思ひおきて、人のもてなすにもよらじ。我心をつつしみて、身を思ひくたさねば、おのづから身に過ぐる幸ひもある物ぞ(女は心掛け次第でどうにでもなるものです。親の思惑や周囲の世話によるものではありません。自分の心を謹んで我が身を粗末にしなければ、自然と身に余る幸せもあるものです)」と語っていたとのこと。

平家物語

1 平清盛の熊野詣 2 藤原成親の配流 3 成経・康頼・俊寛の配流 4 平重盛の熊野詣
5 以仁王の挙兵 6 文覚上人の荒行 7 平清盛出生の秘密 8 平忠度の最期
9 平維盛の熊野詣 10 平維盛の入水 11 湛増、壇ノ浦へ 12 土佐房、斬られる
13 平六代の熊野詣 14 平忠房、斬られる

(てつ)

2012.8.28 UP
2020.3.24 更新

参考文献

熊野の梛(ナギ)の葉