■ 熊野の説話

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◆ しんとく丸


 人の多く集まる社寺の前など街頭で、庶民相手に仏の教えを広めるために語られた物語、説経。
 そもそも説経とは読んで字のごとく経を説くこと。仏典を読み説くこと。
 仏の教えをいかに一般の人々に伝えるか。教養のない庶民にお経を読んで聞かせても、それほど面白いものではありません。そこで庶民に対しては仏の教えを物語に仮託して伝えるという方法を取りました。『今昔物語集』などに収められている説話のなかには、おそらく平安時代に僧侶が説経したものが多く含まれているものと思われます。

 室町時代に入ると、「小栗判官」「刈萱」「山椒太夫」「しんとく丸」「愛護若」のいわゆる五説経があらわれます。
 「小栗判官」では熊野の霊験が大いに語られますが、ここでご紹介する「しんとく丸」でも熊野の霊験は語られ、熊野詣の道筋にある天王寺(四天王寺。大阪市天王寺区)が主な舞台のひとつとなってます。「しんとく丸」のあらすじは以下のとおり。

 河内国の高安(今の大阪府八尾市市内)の信吉長者は金持ちで何の不足もなかったが、前世での悪行の報いで子宝にだけは恵まれなかった。そこで、 信吉長者夫婦は京都東山の清水寺に参り、観音に申し子して、子を授かった。

 生まれた男の子は、「しんとく丸」と名づけられた(信徳丸・真徳丸・新徳丸などの字をあてる本がある。同じ題材の謡曲『弱法師(よろぼうし)』には俊徳丸とあり、「しん」は「俊」から転じたとの説もある)
 しんとく丸は9歳になると、三年の間、信貴(しぎ)の寺(おそらく信貴山朝護孫子寺(しぎさん・ちょうごそんしじ)。奈良県生駒郡平群(へぐり)町。河内国高安に近い)に預けられ、学問を学ぶこととなる。

 信貴の寺で一番の学者となり、河内国高安に戻ってきたしんとく丸は、天王寺の聖霊会(しょうりょうえ。陰暦2月22日、聖徳太子の命日に営まれる法会)で稚児舞を舞うこととなり、その折、客席にいた和泉国近木の庄(こぎのしょう。今の大阪府貝塚市北西部)の蔭山長者の娘・乙姫に一目惚れ。 信吉長者の家来の働きで文を取り交わして結婚の約束を取りつける。しんとく丸は大喜びだったが、そんなとき、しんとく丸の母が亡くなってしまう。しんとく丸は持仏堂にこもり、母の菩提を弔う。

 信吉長者はまもなく新しい奥方を迎え、新しい奥方はじきに男の子をもうけた。新しい奥方は、しんとく丸がいるために我が子を信吉長者の跡継ぎにできないのが口惜しく、都に赴き、都中の寺社を駆け巡り、136本もの呪いの釘を打ち込んで、しんとく丸に呪いをかけた。
 しんとく丸は継母の呪いのために目が潰れ、ライ病となり、天王寺に捨てられる。しんとく丸は絶望して、物乞いもせずに飢え死にすることを決意したが、眠りについたしんとく丸の夢枕に清水の観音が立った。

 ここから少し現代語訳を。

 清水の御本尊は、氏子が不憫だとお思いになり、しんとく丸の枕元にお立ちになり、
 「いかにしんとくよ。御身の病いは本当の病いではない。人の呪いによってかかった病いであるので、町家へ物乞いし、命をつなぎなさい」
 とお告げになり、消すがごとく失せなさる。

 しんとくは夢から覚め、
 「ああ、ありがたい御夢想であることよ。病いにもならずに父の機嫌を損ねて、物乞い申するのなら、我が身の恥であろうけれど、病いを受けたのを親の身として育てかねてお捨てになったのだ。物乞い申すのは父御の御面目であって、我が身の恥ではない。だから、教えに従って、物乞い申そう」
 と、蓑笠を肩に掛け、天王寺七村を物乞いなさると、町家の人はご覧になって、
 「ここにいる乞食は、ものを食べてないからよろめくのか。さあ、あだ名を付けよう」といって、弱法師(よろぼうし)と名を付け、1日2日は養ったけれど、引き続いて養う者はいない。

 また、清水の御本尊が虚空よりお告げになって、
 「やあいかにしんとく丸よ。御身のような病いは、これより熊野の湯(和歌山県東牟婁郡本宮町にある湯の峰温泉に入れ。病い本復申すぞよ。急ぎ入れよ」
 と教えなさった。消すがごとくにお姿は見えなくなった。
 しんとく丸はこれをお聞きになって、
 「今のは、われらの氏神、清水の観世音であるのだろうか」
 と、虚空を三度伏拝み、ならば教えに従って、湯に入ろうとお思いになり、天王寺を出立し、熊野に向かってお急ぎになった。

 お通りになったのはどこどこぞ。阿倍野五十町をはや過ぎて、先をどこかとお問いになる。住吉四社明神はや過ぎて、先をどこかとお問いになる。堺の浜はこれのことか。石津畷(大阪府堺市石津町)を通るとき、西をはるかに眺めると、大網を下ろす音がする、目ごとにものを思うだろうか。大鳥(堺市鳳町)、信太(和泉市北西部。和泉市王子町、葛の葉町付近)をはや過ぎて、井の口千軒はこれのことか。近木の庄で有名な地蔵堂にてお休みなさると、また清水の御本尊が旅の道者に身を変えて、しんとく丸に近づいて、
 「いかにここにいる病者よ。この地の有徳人(うとくじん。金持ち)が御身のような乞食に施行を出してお通しになる。参って、施行を受け、命を継げ」と教え、何ということもない体でお通りになった。

 しんとくはこれをお聞きになり、ならば施行を受けようとお急ぎになるが、以前、手紙で約束なされた乙姫の館とは夢にも御存じなくて、堀の橋を渡り、大広庭につっと立ち、「熊野に通う病者にお布施ください」とお乞いになる。
 昔を知った人がいて、「のう、いかに面々。あれは以前、館の乙姫の方へ文の通いをなされた河内の国高安長者のしんとくであるが、何という因果が回ってきて、あのような病いを受けたのか」と人が噂すると、しんとく丸は目こそ見えないが、耳は早く、面目ないとお思いになり、門外目指してお出になり、こぼした愚痴の哀れさよ。

 「病いは様々に多いけれど、目の見えないのが辛い。目が見えないからこそ、かきたくない恥をかいてしまうことだ。たとえ病い本復したとしても、この恥をどこの浦にてすすぐことができるのか。天王寺へ戻り、人が食事をくださるとも、はったと食事を絶って、飢え死にしよう」とお思いになって、近木の庄より戻り、天王寺引声堂(いせんどう)の縁の下へ入って、飢え死にしようとお思いになった、しんとく丸の心の中は、哀れともなかなか、何かに譬えようもない。

 現代語訳終わり。結局、しんとく丸は熊野には詣でないのです。

 乙姫は、しんとく丸が病人乞食になったのを知り、文を取り交わしただけのそれでも夫と決めたしんとく丸を想い、巡礼姿に身をやつし、しんとく丸の消息を求めて旅に出る。
 そして、天王寺で、死のうとして死に切れずにいたしんとく丸に巡り会う。

 乙姫はしんとく丸を連れて清水寺に詣で、観音に病いの平癒の祈願をしたところ、観音の夢告により平癒の方を得る。それにより病いは回復し、しんとく丸はもとの姿に戻った。

 一方、しんとく丸の父の信吉長者はしんとく丸を捨ててから後、目が潰れ、身代も潰してしまった。河内国にいたたまれなくなった信吉長者は奥方と子を連れて丹波の国に流れた。

 しんとく丸と乙姫の夫婦は京より和泉国近木の庄に向かい、乙姫の両親と喜びの対面。
 しんとく丸が目が見えないときに人から受けた恩を返したいと、安倍野が原で7日間の施行(せぎょう。僧や物乞い、病人に物を施し与えること)をする。
 そこへ信吉長者たちも施しを受けようとやってくる。しんとく丸と信吉長者たちが再会を果たす。しんとく丸は信吉長者の目を治し、奥方と子は首を斬って捨てた。その後、しんとく丸は乙姫と信吉長者とともに河内国に戻った。

 というのが「しんとく丸」のあらすじです。

 しんとく丸が稚児舞をし、乙姫を見初め、病いとなって捨てられ、そして乙姫と巡り会った四天王寺。
 聖徳太子創建の日本最古の官寺と伝わりますが、浄土教が浸透していくなかで、京の近くにあって海に沈む夕日を拝むことができた四天王寺は、その西門が極楽浄土の東門に通じると信じられ、平安末期から鎌倉時代にかけて、念仏聖の拠点として役割を果たしました。
 人々は、四天王寺の西門から海に沈む夕日を拝み、夕日に向かって念仏を唱え、夕陽の沈む彼方に西方極楽浄土を観相し、極楽往生を願いました。

 熊野は盲人やライ病者をも回復させることができる強力な浄化力をもつ場所だと考えられ、多くの盲人やライ病者たちが治癒の奇跡を求めて熊野を詣でましたが、その熊野詣の道筋に四天王寺はあります。

 四天王寺の南門には熊野権現礼拝石が建ち、そこから、はるか南方にある熊野権現を遥拝し、熊野権現の加護を祈願したといいます。

 しんとく丸が病を回復した清水寺。
 応仁の乱の兵火によって焼失した清水寺の再建のために奔走したのが願阿弥(がんあみ)という時衆の僧でした。この説経の成立にも時衆の僧が関与していたのではと想像されます。

(てつ)

2003.5.15 UP
2014.11.13 更新

 ◆ 参考文献

室木弥太郎 校注『説経集』新潮日本古典集成
荒木繁・山本吉左右編注『説経節 山椒太夫・小栗判官他』東洋文庫 平凡社
清水義範・ねじめ正一『おとぎ草子・山椒太夫ほか』少年少女古典文学館16 講談社

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