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◆ 白河上皇の熊野御幸


 熊野が広くその名を知られるようになるのは、上皇による熊野御幸が行われるようになってからです。
 熊野を初めて詣でた上皇は宇多法皇で、907年のこと。それから80年ほど間をおいて、今度は
花山法皇が992年に詣でています。しかし、どちらの熊野御幸も単発だったため、熊野信仰を盛り上げるのに役立つことはありませんでした。

 花山上皇のときからほぼ百年後、1090年、白河上皇(1034〜1129)が熊野を詣でます。この白河上皇がじつに9回もの熊野御幸を行います。
 白河上皇の度重なる熊野御幸が、熊野信仰が熱狂的な高まりを見せるきっかけとなったのです。
 1回目の熊野御幸は、1090年、白河上皇、37歳の時。それから26年後の1116年に2回目。その後、17年、18年、19年、20年と毎年、熊野を詣で、少し間を置いて25年、27年、そして、亡くなる前年の28年と、合わせて9回の熊野御幸。

 白河上皇といえば、藤原摂関家から実権を奪い、「院政」を始めた上皇です。

 藤原氏の摂関政治というのは、藤原氏が天皇の外祖父(母方の祖父)になることによって成立していました。自分の娘を天皇に嫁がせ、生まれた男子を天皇にする。自分は天皇の外祖父として天皇が幼少の頃は摂政、成人してからは関白として政治の実権を握るというのが摂関政治でした。

 このような、考えてみれば、単純な方法で権力を握った藤原氏でしたが、それは、つまり、天皇に嫁がせた嫁に男子ができなければ、藤原氏の政治的権力の基盤は失われてしまうということでもありました。

 白河天皇の祖父・後朱雀天皇には2人の皇子がありました。第1皇子は藤原道長の娘・嬉子を母とする親仁親王、第2皇子は三条天皇の皇女・禎子を母とする尊仁親王。
 尊仁親王母子は藤原摂関家から冷遇され、宮廷内でも不利な立場にありました。母ともども藤原摂関家に虐げられる生活のなか、尊仁親王は、反藤原の志を胸に抱いて育っていったのでしょう。

 藤原氏の血を引く第1皇子の親仁親王が当然、後朱雀天皇譲位後、即位。これが後冷泉天皇です。
 しかし、後朱雀天皇は聡明な尊仁親王を愛し、親仁親王に位を譲るとき、弟の尊仁親王を皇太子にし、次の天皇の位は弟の譲るということを条件としました。藤原摂関家はこれをしぶしぶながらも認めます。たとえ尊仁親王が皇太子になっても、後冷泉天皇に子が産まれれば、いくらでも理由を付けて尊仁親王を廃太子にできるとの目論見があったのでしょう。実際、藤原氏には天皇や皇太子を廃位にもできるほどの権力がありました。
 藤原頼通・教通はそれぞれ自分の娘を後冷泉天皇に嫁がせ、皇子の誕生を待ちます。しかし、一人の子もできないまま、後冷泉天皇は崩御。
 ついに、藤原氏と外戚関係をもたない尊仁親王が即位してしまいます。

 じつに宇多天皇以来百七十年ぶりの、藤原氏と外戚関係のない天皇の即位です。これが後三条天皇、白河天皇の父です。後三条天皇は権力を摂関家から取りあげ、天皇親政を行い、国政の改革に取り組みます。
 藤原氏の経済的基盤は「荘園」です。そもそも土地というのは大化の改新以来、法的にはすべて天皇のものです。誰かが所有することなどできないはずでした。しかし、皇室の経済的な困窮と貴族豪族の実力の向上により、土地の私有が認められるようになります。

 当然、皇室は私有地に対して課税しようとしましたが、私有地の所有者は、土地の名義を皇室にも手を出せないような中央の有力者(とくに藤原氏)のものとし、その有力者にある程度の納付を行なうことで徴税を逃れるという手段に出ました。これを土地の「寄進」といい、「寄進」された土地のことを「荘園」といいます。藤原氏を支えた経済的な基盤は、この「荘園」でした。その「荘園」を、後三条天皇は法律により規制、藤原氏抑制を図りました。

 後三条天皇はわずか4年半の在位で、白河天皇に譲位。そののち半年ほどで病没してしまいますが、白河天皇がその遺志を継ぎます。
 藤原氏出身の母を持つ白河天皇でしたが、摂関政治の時代に戻すつもりはなく、後三条天皇の反藤原・天皇親政の遺志を受け継ぎます。

 天皇として14年間在位した後に1086年、8歳の善仁(たるひと)親王(堀河天皇)に譲位、自ら上皇(院)となって、天皇の庇護者として政治を後見する「院政」という新しい政治制度を開始しました。1107 年に堀河天皇が亡くなりますが、4歳の孫・宗仁親王(鳥羽天皇)を即位させ、院政を続けます。さらに1123年、成人して扱いにくくなった鳥羽天皇を退位させて5歳のひ孫・顕仁親王(崇徳天皇)を即位させ 、引き続き、白河上皇が院政を続けます。

 皇室の権力を藤原氏なしに確立させるため、白河上皇は、数々の荘園を手に入れ、寺社に参詣して影響力を確立し、中級貴族の受領層の支持を取り付け、院の御所には警護のための北面の武士を置くなど、院の権力を強化しました。

 こうして政治の実権が上皇に推移するとともに、藤原氏の経済的基盤となった「荘園」も、上皇に流れ、白河上皇は天下の権力と富を一身に集めた専制君主となります。摂関家の地位は完全に下落し、「意の如くにならざるもの、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つ」という言葉が残るほど、白河上皇は権勢を誇りました。

 譲位後、堀河、鳥羽、崇徳の3代、43年に渡って院政をとり、「治天の君」として政治の実権を握り続けた白河上皇(天皇在位時と合わせて57年間も実権を握っていたことになります)。
 「治天の君」とは院政を行う上皇のことをさしていう尊称ですが、「治天の君」は天皇の庇護者であり、天皇とは別格の存在でした。「治天の君」は天皇を規制する従来のどのようなしきたりにも制限されない自由な存在でした。

 天皇は朝起きてから夜寝るまで、様々なしきたりに規制され、多忙を極め、自由な行動などできませんでした。しかし、上皇になったら、天皇の父親としての権力や財力を持ちながら、何ら法的な根拠を持つ地位ではないがゆえに自由を享受することができました。そのため、白河上皇はこれまでの制度や慣例などを気にせずに意のままに政治を行うことができたのです。

 それゆえ、熊野「御幸」も可能だったのです。自由な行動を許された上皇だからこそ、熊野を参詣することができたのです。
 天皇が熊野を参詣したことはありません。熊野「行幸」はこれまで1度もなされたことがありません。
 あったのは熊野「御幸」のみ。熊野参詣は、権力と富と自由を手に入れた上皇だったからこそ、可能だったのです。

 しかし、なぜ熊野だったのでしょう。京都から往復1ヶ月もかけてなぜわざわざこんな辺鄙なところまで来たのか。その理由ははっきりとはわかりません。
 当時の関白・藤原忠実にしても、4回目の熊野御幸(1118)に際して「毎年の御熊野詣実に不可思議なり」と述べたとか(この関白、1120年に白河上皇の不興を買い、上皇に罷免されました。これは当時の廷臣達には衝撃的な事件で、院の力、藤原氏の衰えをまざまざと見せつけたのでありました)。

 天皇には皇室祖先神として伊勢神宮がありました。しかし、伊勢神宮は創建の由来からいって藤原氏と強く結びついています。そのため、反藤原の意図を持つ白河上皇は、伊勢神宮以外の神を求めたのでしょう。
 しかし、それがなぜ熊野だったのか。その理由ははっきりとはしません。 

 1回目の熊野御幸(1090)で、特筆すべきことが3点あります。

 1. 先達(せんだつ。道案内人)をつとめた園城寺の増誉(ぞうよ)が初代の熊野三山検校に任命されたこと。

 園城寺(おんじょうじ。通称・三井寺。天台寺門宗の総本山。西国三十三カ所霊場第十四番札所 。滋賀県大津市園城寺町)の長吏(ちょうり。最高責任者)で、顕密修験の三宗に通暁した当代一の高僧として名高かった増誉(1032〜1116)が、先達をつとめた功により初代の熊野三山検校に任命されました。

 検校(けんぎょう)とは社寺の総務を統括する役職のことで、つまり、熊野三山検校とは熊野三山を統括する最高位の役職です。
 ただし、熊野三山検校に任じられたといっても、増誉は実際に熊野の地に赴任することはなく、多分に名誉職的な役職でした。増誉以降、園城寺か聖護院(増誉が熊野御幸の功により開いた寺)の僧が熊野三山検校に任じられることが慣例となりましたが、いずれも、熊野に赴任することなく、熊野御幸の折に先達をつとめる程度であったようです。
 形式的な役職とはいえ、熊野三山検校という役職が正式に作られたことにより、僻地にあり、それまで都から独立していた感のある熊野三山が中央との結びつきを得ることができたものと考えられます。

 2. 上皇が熊野三山に紀伊国の田畠百余町を寄進したこと。

 地形的に田畠に恵まれぬ熊野三山は、これにより財政的な基盤を確保することができたと考えられます。

 3. 熊野別当をつとめていた長快(ちょうかい)に法橋(ほっきょう)という地位を与えたこと。

 熊野別当とは、熊野三山の実際の統括者で、白河上皇の御幸以前から存在した役職ですが、法橋という五位に準ずる地位を与えられ、正式に朝廷からの承認を受けました。

 これにより熊野別当の地位が高まり、その権威を背景に熊野三山の統括を進め、熊野三山の一体化を図ったものと考えられます。熊野三山検校が置かれた後も、熊野三山を実際に統括したのは熊野別当でした。

 白河上皇の1回めの熊野御幸は熊野三山にとって画期的な出来事であったと想像されます。この御幸をきっかけとして、熊野三山は、中央との結びつきを得、財政基盤をも得ることができたのですから。

 3回目の熊野御幸の時(1117)、白河上皇は寵妃・祇園女御とその養女・璋子を伴いました。問題はこの璋子。白河上皇は、いってみれば璋子の父親役でありながら、璋子とも性的な関係にありました。そんな璋子を白河上皇は孫の鳥羽天皇(1103〜56)の后に入れようとしたのです。今回の熊野御幸は、璋子入御の祈願のために行われたらしい。そして、実際、この熊野御幸の1ヶ月後に璋子は鳥羽天皇の后になります。これが待賢門院ですが、鳥羽天皇は祖父の愛妾を后にしたことになります。

 5回目の熊野御幸(1119)は、懐妊中の璋子の無事を祈願するために行われたといいます。その祈願の甲斐あってか、子ども(第1皇子、のちの崇徳天皇)は無事生まれますが、その子はじつは鳥羽天皇の子ではなく、祖父の白河上皇の子であったらしい。そう噂されました。そのため、鳥羽天皇はその子を叔父子(叔父でもあり子供でもある)と呼んで嫌いました。白河上皇は、崇徳をかわいがり、1123年、鳥羽天皇を退位させて、崇徳天皇を5才で即位させます(この白河・鳥羽・崇徳の複雑な関係がのちに保元の乱を引き起こし、貴族の世を武士の世へと変えていきます)。

 7〜9回目の熊野御幸(1125、27、28)には 、白河上皇は、待賢門院璋子と鳥羽上皇を伴います。

 いずれの御幸のときのことかはわかりませんが、『愚管抄』という藤原摂関家出身の僧・慈円が記した歴史書には、熊野権現の宝前で不思議な出来事があったことが記されています(巻第四)。

 さて、白河院の御時、御熊野詣ということが始まって、度々お参りになられていたが、いずれのときにか、信を出して宝前にいらっしゃったときに、宝殿の御簾の下から美しい手が差し出しては引き、差し出しては引き、二、三度ほどくり返してから引き入ってしまった。夢などにはこんなことはあるが、鮮やかに現実にこのようなことをご覧になってしまったのを不思議にお思いになって、巫女たちが多かったので、何となくものを問われたところ、いよいよますます現実ではないらしい。巫女たちのなかにヨカノイタといって、熊野の巫女のなかでよく知られているものがいた。美作の国の者と申した。それが7歳でありましたが、はたと御神を憑かせなさった。世の末には手の平を返したことばかりあるであろうことを見申し上げたよと申し上げたが、このような不思議もご覧になってしまった君である。

 この預言通りというべきか、白河上皇の死後二十数年ののち、孫同士が皇位継承を巡って争って保元の乱を起こし、それがきっかけとなり、これまでの貴族の世は終焉を迎え、武者の世へと移行していきました。

 何はともあれ、この白河上皇の9回に及ぶ熊野御幸が、のちの鳥羽上皇の21回、後白河上皇の34回、後鳥羽上皇の28回という熊野御幸を生み、さらに武士や庶民による「蟻の熊野詣」を生み出しました。

 それにしても、待賢門院璋子。よっぽど魅力的な女性だったんでしょうね。鳥羽天皇も、待賢門院との間に崇徳の他に5人の子供を作ってますし(後白河天皇も彼女の子)。西行の出家遁世も待賢門院璋子との悲恋が原因だという説もありますし。

(てつ)

2000.7 UP
2002.3.30 更新
2002.10.1 更新
2004.10.28 更新

 ◆ 参考文献

梅原猛『日本の原郷 熊野』新潮社
監修・神坂次郎『熊野古道を歩く 熊野詣』講談社カルチャーブックス
高野澄『熊野三山・七つの謎』祥伝社
新日本古典文学体系『保元物語 平治物語 承久記』岩波書店
本宮町史編さん委員会『本宮町史
通史編』本宮町

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■白河上皇の熊野御幸の実施年月と目的地:
1.1090年1月―
本宮
2.1116年10月―本宮か
3.1117年10月―本宮か4.1118年閏9月―本宮・
新宮那智
5.1119年9月―本宮
6.1120年10月―本宮
7.1125年11月―本宮
8.1127年2月―本宮
9.1128年2月―本宮
 7〜9は
鳥羽上皇待賢門院と同行。
 8は本宮・新宮・那智に参拝予定であったが、本宮のみとなった。

■白河院の側近には、蹴鞠の達人・藤原成通がいました。

■熊野御幸を行った上皇の名とその回数
・宇多法皇(1)
花山法皇(1)

白河上皇(9)
鳥羽上皇(21)
崇徳上皇(1)
後白河上皇(34)
後鳥羽上皇(28)
後嵯峨上皇(2)
・亀山上皇(1)

■天皇略系図
(白河天皇から御鳥羽天皇まで。茶色の数字は歴代。
赤い数字は熊野御幸の回数)

■熊野御幸を行った女院の名とその回数
・待賢門院(12)
 ※
鳥羽上皇の中宮
・美福門院(4)
 ※
鳥羽上皇晩年の皇后
・上西門院(1)
 ※
鳥羽上皇の皇女
建春門院(4)
 ※
後白河上皇の女御
・八条院(2)
 ※
鳥羽上皇の皇女
・七条院(5)
 ※高倉天皇の後宮、
  
後鳥羽上皇の生母
・殷富門院(4)
 ※
後白河上皇の皇女
・修明門院(11)
 ※
後鳥羽上皇の後宮
・承明門院(1)
 ※
後鳥羽上皇の後宮
・陰明門院(1)
 ※土御門上皇の中宮

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