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◆ 鳥羽上皇の熊野御幸


鳥羽上皇画像(安楽寿院所蔵) 鳥羽天皇(1103〜56)が即位したのは、1107年、父・堀河天皇が亡くなった4歳のとき。1123年、20歳のとき、皇后・待賢門院 璋子(たいけんもんいん・しょうし/たまこ)との間にできた当時5歳の第一皇子・崇徳天皇(1119〜68)に譲位、上皇となります。

 鳥羽天皇が20歳という若さで譲位したのは、祖父・白河上皇(1034〜1129)の意志によります。院政により専制政治を行っていた白河上皇にとって、孫の鳥羽は成人して扱いにくくなったので、代わりにひ孫の崇徳を即位させたのです。

 鳥羽の譲位により白河・鳥羽という二人の上皇が出現することになりましたが、実権は依然、白河上皇が握っていました。
 上皇のなかで、実権をもち院政を行う上皇のことを「治天の君(ちてんのきみ)」といいますが、白河上皇は「治天の君」として絶対的な権力と巨大な財力とを一手に握り、律令体制を無視し、専制君主政治を行いました。
 一方、新院である鳥羽上皇は、もう天皇ではなく、かといって天皇の庇護者として権力を振るうこともできず、宙ぶらりんな状態でした。

 白河上皇は43年の在院期間中に9回の熊野御幸を行っています。単純に計算すると、4年10ヶ月に1回のペースですが、1回目から2回目まで26年の間が開いており、2回目以降から計算すると、およそ1年半に1回のペースになります。
 1年半に1回、京都から往復1ヶ月ほどかけて熊野まで参りに来るというのは、すごいです。生半可な気持ちでできることではないでしょう。この白河上皇の度重なる熊野御幸がそれ以降の熱狂的なまでの熊野ブームを生み出すきっかけとなりました。

 1129年、白河上皇が崩御すると、その巨大な権力と財力を鳥羽上皇が譲り受け、院政を開始。20歳の若さで退位させられて不満この上なかった鳥羽上皇は、権力を握ると、白河院と同じように専制君主として振る舞います。
 1141年 、鳥羽上皇は、22歳になった崇徳天皇を退位させて、待賢門院に代わって寵愛した美福門院 得子との間にできた第九皇子(崇徳とは異母弟)である近衛(このえ)天皇を2歳で即位させました。しかし、近衛天皇は1155年、わずか16歳で、子をもうけることなく亡くなってしまいます。

 次の皇位継承者として崇徳の子が考えられましたが、崇徳を嫌っていた鳥羽上皇は、待賢門院との間の第四皇子(崇徳の同母弟)の後白河天皇を29歳で即位させ、後白河の子を皇太子とします。
 この後白河天皇、
今様にうつつをぬかし、「文にもあらず、武にもあらず」「天皇の器にあらず」と評されるようなうつけものです。そんなうつけものに即位させてまでも、鳥羽上皇は、崇徳の子には皇位を継承させたくなかったようです。
 崇徳の子が天皇になるということは、鳥羽上皇没後は、崇徳が治天の君になるということです。崇徳が治天の君として院政を行う。そんなことには絶対にさせない、と鳥羽上皇は考えていたのでしょう。

 なぜ鳥羽上皇は自分の長男である崇徳をそこまで嫌っていたのでしょうか。
 じつは崇徳は、鳥羽上皇の子ではなく、白河上皇の子であったらしいのです。
 自分の子がじつは祖父が自分の后に生ませた子であったとしたら・・・

 鳥羽上皇の妃・待賢門院 璋子は、白河上皇の寵妃・祇園女御の養女であり、璋子にとって白河上皇は父親のような存在でした。しかし、白河上皇は璋子とまで性的関係を結んでしまいました。

 鳥羽天皇は藤原忠実の娘・泰子を入内させたいと考えていました。しかし、白河上皇の反対によって諦めるより他ありませんでした。
 白河院政下、即位も譲位も入内も専制君主・白河上皇の意志により決定されます。天皇に何の権限もありません。
 白河上皇は孫の鳥羽天皇の妃によりにもよって自分の愛妾である璋子を入内させました。鳥羽天皇は祖父の愛妾を妃にしたことになります。

 そして、その后が第一皇子(のちの崇徳天皇)を生みますが、その子はじつは祖父の白河上皇の子であると噂され、鳥羽の耳にもその噂が入ります。
 自分の后が祖父の子を生んだなどと考えたら、その子を疎ましく思うのも仕方ありません。

 そのため、鳥羽はその子を叔父子(叔父でもあり子供でもある。崇徳が白河院の子だとしたら、鳥羽にとって父の弟になります)と呼んで嫌いました。
 それでも鳥羽は待賢門院との間に崇徳の他に5人の子をもうけています。よくわからないですが、それだけ白河上皇の目が恐ろしかったのでしょうね。

 白河院崩御後には、待ちかねていたかのように、高陽院 泰子を入内させ、白河院にうとまれ陰棲していた泰子の父・藤原忠実を重用。反白河体制で院政を行います。
 崇徳・近衛・後白河の三代にわたる鳥羽院政ですが、近臣の忠実にまで「其の政、多く道ならず、上は天心に違い、下は人望に背く」と評されるほどでした。

 さて、白河上皇から院政を引き継いだ鳥羽上皇ですが、白河院のおよそ1年半に1回のペースの熊野御幸までも引き継ぎます。
 鳥羽上皇は33年の在院期間中に21回もの熊野御幸を行っています。およそ1年7ヶ月に1回のペース。
 最初の3回は白河上皇の御幸に同道したもので、后の待賢門院も一緒です。
 治天の君としての熊野御幸はそれ以降の18回。27歳の1130年から50歳の1153年の間に18回。熱烈なる熊野権現への信仰は白河上皇以上かとも思われます。

 1143年の10回めの御幸の折には本宮の神前にて金字で一切の経律論を書写せんと誓いました(この前年、鳥羽上皇は出家し、法皇となりました。法皇となって最初の熊野御幸に、鳥羽は崇徳を同道させました。これが崇徳の最初で最後の熊野御幸となりました)。
 そして、1153年の最後の御幸のときに、書写し終えた金字の大乗経2395巻・小乗経617巻・大乗律59巻・小乗律446巻・大乗論515巻・小乗論696巻、合わせて4728巻の一切経律論を本宮の神前に捧げ、神の加護を賜るよう願いをかけました。

 保元の乱を描く軍記物語『保元物語』にはこんなお話が。

 (法皇熊野御参詣 並びに御託宣の事)

 久寿二年の冬のころ(1155年)、鳥羽法皇が熊野へご参詣することがあった。

 史実としては1153年が最後の熊野御幸です。1155年7月に近衛天皇が崩御、1156年7月に鳥羽院崩御。物語として、この2つの崩御の間にこの話を入れようとしたための虚構と考えられます。
 ついでに。法皇とは出家した上皇のことです。鳥羽上皇は1141年、39歳のとき出家しています。

 証誠殿(本宮の本殿)の御前で通夜申しなさったときに、夜半ばかりのころ、神殿の御戸を押し開いて、白く美しく子供が左の手を差し出して、繰り返し繰り返し三度なさって、「これはいかに、これはいかに」と仰せになったという、ご夢想の告があった。

 鳥羽法皇は大変驚いてお思いになって、ご先達(熊野参詣を先導する熊野山伏)に仰せになって、「ここによい巫女(かんなぎ)はいるか。お呼びして、権現様を勧請し申し上げよう」と仰せられたので、元は美作(みまさか。岡山県北部)の国の住人のイワカノ板(イタは熊野の巫女のこと)といって、熊野山内無双の巫女をお呼びになって参上させた。「ご不審のことがある。すぐに占い申せ」と仰せられたので、寅の刻(午前4時頃、およびその前後2時間)より権現を降ろし申し上げようとするが、、正午過ぎまでお降りにならない。人々は目をすまし、どうしたのだと見ているところに、しばらくして権現はお降りになった。

 巫女は鳥羽法皇に向かい奉って、占いの結果を歌によって表わした。

手に結ぶ水にやどれる月影はあるやなきかの世には有(あり)ける

手に掬った水に映っている月の光はあるのかないのかわからないくらいはかないが、そのようにはかない世であることよ。
もと歌は、紀貫之の「手に結ぶ水にやどれる月影のあるやなきかの世にこそありけり」(『拾遺和歌集』哀傷)

 といって、左の手をさしあげて、繰り返し繰り返しして、「これはいかに、これはいかに」と申し上げる。

 熊野権現は巫女を通じてご託宣を下しました。
 この部分の話は、白河上皇熊野詣の折の出来事を虚構化したものでしょう。
 藤原摂関家出身の僧・慈円の歴史書『愚管抄』巻第四には白河上皇のときに次のようなことがあったと書かれています。

 さて、白河院の御時、御熊野詣ということが始まって、度々お参りになられていたが、いずれのときにか、信を出して宝前にいらっしゃったときに、宝殿の御簾の下から美しい手が差し出しては引き、差し出しては引き、二、三度ほどくり返してから引き入ってしまった。

夢などにはこんなことはあるが、鮮やかに現実にこのようなことをご覧になってしまったのを不思議にお思いになって、巫女たちが多かったので、何となくものを問われたところ、いよいよますます現実ではないらしい。

巫女たちのなかにヨカノイタといって、熊野の巫女のなかでよく知られているものがいた。美作の国の者と申した。それが7歳でありましたが、はたと御神を憑かせなさった。世の末には手の平を返したことばかりあるであろうことを見申し上げたよと申し上げたが、このような不思議もご覧になってしまった君である。

 『保元物語』に戻って、

 「本当に権現様の御託宣である」とお思いになって、急いで御座所をはずし下座にさがられなさった。お手をあわせて、「私が申し上げるところはこれです。さて、これはどのようなことでございましょうか」と申し上げなさると、「来年、必ず崩御するだろう。その後は、世の中は手の裏を返すがごとくになることだろう」と託宣があったので、法皇をはじめとして、御所におつかえする公卿殿上人は、皆涙をお流しなさって、「さて来年はいつのころにか」と申し上げなさると、巫女はとりあえず、

夏はつる扇と秋の白露といづれかさきに置きまさるべき

夏を終えた扇と秋の始まりの白露とではどちらが先に早く置くことになるのでしょうか。
もと歌は壬生忠岑(みぶのただみね)の「夏はつる扇と秋の白露といづれかさきにおかんとすらむ」(『新古今和歌集』巻第三 夏歌 283)
『忠岑集』では第五句「おきまさるらん」。

 「夏の終わり、秋の始め」とおおせられた。公卿殿上人は、「どうにかして、そのご難を逃れ、お命を延びさせなさることができないだろうか」泣く泣く問い申し上げたところ、「前世の業で定まった寿命である。我の力も及ばない」といって、権現様はやがてお上がりなさった。法皇は御心中、悲しくお思いになった。還御の御有り様は、心細く思われた。

 そして、この熊野のイタの預言通りに「夏の終わり、秋の始め」の7月2日(陰暦では7〜9月が秋)に、ついに鳥羽上皇は54歳で崩御しました。そして、また、預言通り、世の中は手のひらを返すようなことが次々に起こるのです。
 鳥羽上皇崩御後、10日も経たぬうちに、崇徳上皇がこれまでの不満を爆発させ、後白河天皇より皇位を奪うべく挙兵します。これが保元の乱です。この戦いは後白河天皇側の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐に配流されます。
 3年後の1159年には、平治の乱。それから源平の合戦、鎌倉幕府の成立と、これまでの貴族の世は終焉を迎え、武者の世へと移行していきました。

(てつ)

2001.9.26 更新

 ◆ 参考文献

新日本古典文学体系『保元物語 平治物語 承久記』岩波書店
梅原猛『日本の原郷 熊野』
新潮社

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■関連サイト
ふょーどるの文学の冒険
 
保元物語 現代語訳

■熊野御幸を行った上皇の名とその回数
・宇多法皇(1)
花山法皇(1)
白河上皇(9)
鳥羽上皇(21)
崇徳上皇(1)
後白河上皇(34)
後鳥羽上皇(28)
後嵯峨上皇(2)
・亀山上皇(1)

■天皇略系図
(白河天皇から御鳥羽天皇まで。茶色の数字は歴代。
赤い数字は熊野御幸の回数)

■熊野御幸を行った女院の名とその回数
・待賢門院(12)
 ※
鳥羽上皇の中宮
・美福門院(4)
 ※
鳥羽上皇晩年の皇后
・上西門院(1)
 ※
鳥羽上皇の皇女
建春門院(4)
 ※
後白河上皇の女御
・八条院(2)
 ※
鳥羽上皇の皇女
・七条院(5)
 ※高倉天皇の後宮、
  
後鳥羽上皇の生母
・殷富門院(4)
 ※
後白河上皇の皇女
・修明門院(11)
 ※
後鳥羽上皇の後宮
・承明門院(1)
 ※
後鳥羽上皇の後宮
・陰明門院(1)
 ※土御門上皇の中宮

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