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熊野三山検校・行尊

行尊の熊野関連の歌

 行尊(ぎょうそん。1055~1135)は、熊野信仰の隆盛に多大な貢献をなした人物のひとりであろうと考えられます。行尊は、園城寺(おんじょうじ。通称・三井寺。天台寺門宗の総本山。西国三十三カ所霊場第十四番札所 。滋賀県大津市園城寺町)の僧で、第二代の熊野三山検校(熊野三山の統括者)を務めた人物です。

もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし

(訳)山桜よ、私がそなたを愛しく思うのと一緒に、そなたも私を思っておくれ。今の私にはそなたよりほかには、私を知っているものもないのだから。

 『小倉百人一首』の66番に採られたこの歌はとても有名ですけれど、作者の行尊が熊野三山検校であったのは案外知られていないのでは、と思います。

行尊の熊野関連の歌10首

『金葉和歌集』より1首

1.熊野で験比べをしていたときに詠んだ歌

   年ひさしく修行し歩きて熊野にて験競(げんくらべ:修験者が神通力を競う競技会)しけるを、祐家卿参りあひて見けるに、ことのほかに痩せ衰へて姿も賤(あや)しげにやつしたりければ、見忘れて、傍(かたはら)なりける僧に、いかなる人にか、ことのほかに験(しるし)ありげなる人かな、など申(まうし)けるを聞きて

心こそ世をば捨てしかまぼろしの姿も人に忘られにけり

(訳)心はこの世を捨ててしまい、幻のような姿だけがまだこの世に残っているが、その姿も人から忘れられてしまったのだなあ。

(巻第九 雑部上 587)

 熊野で験比べをしていたときに少年期に顔見知りであった人物がいたが、その人物が行尊を見て行尊だと気付かなかったときに詠んでその人物に渡した歌です。
 痩せ衰え、やつれ、変わり果てた姿では、少年の頃の面影なんてがまるでなかったのでしょう。わからなくても仕方ないです。この歌は茶目っ気があって、いいです。歌を渡したその場面を想像すると、なにか微笑ましくなります。

『新古今和歌集』より6首

2.花山院の那智山中での歌を本歌に

   修行し侍(はべり)けるころ、春の暮(くれ)によみける

(こ)のもとのすみかも今はあれぬべし春しくれなばたれか訪(と)ひこん

(訳)木の下の住処ももうきっと荒れるであろう。春が暮れてしまったら、誰が訪ねて来ようか。

(巻第二 春歌下 168)

 この歌が詠まれた場所は熊野か吉野か大峰山中かどこかはわかりませんが、これには本歌があって、本歌は『詞花集』に載る花山法皇が那智の山中で詠んだ「木(こ)のもとをすみかとすればおのづから花見る人になりぬべきかな」(巻第九 雑上 276)ですので、熊野絡みということでここでご紹介しました。

3.熊野に参る途中に詠んだ歌

   修行(すぎやう)に出(い)で侍(はべり)けるによめる

思へども定めなき世のはかなさにいつを待てともえこそ頼めね

(訳)帰りを待っていてほしいと思うけれども、無常の世は果敢ないものなので、いつの日を待ってくれとも約束することはできないのだよ。

(巻第九 離別歌 879)

 家集のこの歌の詞書には「五月晦ごろに熊野へ参り侍りしに、羽束(はつかし)といふ所にて、千手丸が送りて侍りしに」とあります。熊野へ行く途中、羽束師(京都市伏見区羽束師志水町の羽束師神社)まで送って来てくれた稚児「千手丸」に与えた歌です。

4.熊野参詣道の大辺路で修行していたときに詠んだ歌

   いそのへちの方に修行し侍けるに、ひとり具したりける同行を尋ね失ひて、もとの岩屋の方へ帰るとて、あま人の見えけるに、修行者見えばこれを取らせよとて、よみ侍ける

わがごとくわれをたづねばあま小(を)舟 人もなぎさの跡とこたへよ

(訳)私がこうして尋ねたように、同行の者が私のことを尋ねたなら、漁師さんよ、渚にはもういないよ、私はもう行ってしまったあとだよと答えてくれ。
 「いそのへち」は、海岸伝いの修行の道。ここでは熊野参詣道の大辺路のことだと思われる。
 「あま小舟」は漁師の乗る小さな舟のこと。「なぎさ」は、「渚」と人も「無き」の掛詞。

(巻第十 羇旅歌 917)

5.熊野本宮で修行していたときに詠んだ歌

   都を出でて久しく修行し侍けるに、問ふべき人の問はず侍ければ、熊野よりつかはしける

わくらばになどかは人の問はざらむ おとなし河に住む身なりとも

(訳)どうしてたまには便りをくれないのだろう。いくら私が音無川の近くに住む身であるとしても。

(巻第十七 雑歌中 1662)

 音無川は熊野本宮のそばで熊野川に合流する川。明治22年(1889年)8月の水害時まで本宮は熊野川と音無川の合流点にある中州にありました。
 精進潔斎を眼目としていた熊野詣の道中において、音無川は本宮に臨む最後の垢離場にあたります。そのため、かつては熊野詣といえば音無川が連想されるほど、その名を知られた川でした。
 この歌では、「音無川」と音信が無いの意の「音なし」の掛詞になっています。

6.家集によると熊野の社前で詠んだ歌

   題しらず

くり返しわが身のとがを求むれば君もなき世にめぐるなりけり

(訳)何度も繰り返し我が身の罪業を探し求めると、それは君の亡くなった世にいつまでも生き長らえていることであった。

(巻第十七 雑歌下 1742)

 「君もなき世」の「君」が誰なのかは不明。1085年に15歳で没した実仁親王(白河天皇の東宮。行尊の甥にあたる)か、1107年没の堀河天皇か、1129年没の白河院か。

7.熊野へ参って大峰に入ろうとしたときに、自分を育ててくれた乳母のもとに遣わした歌

   熊野へまい(ゐ)りて大峯へ入らむとて、年ごろ養ひたてて侍りける乳母(めのと)の許につかはしける

あはれとてはぐくみ立てしいにしへは世をそむけとも思はざりけん

(訳)私を可愛がって育ててくれたその昔は、出家遁世するようにとは思いもしなかったでしょう。

(巻第十八 雑歌下 1813)

 生みの母より育ての母といいますし、乳母とは実際の母親以上に親密な絆で生涯結ばれていたそうです。
 二人の間の情愛が感じとれて、グッときます。

 大峰山系を縦走することを「大峰奥駈け」といいますが、熊野から吉野へ駆けることを順峯(じゅんぶ)、吉野から熊野へ駆けることを逆峯(ぎゃくぶ)といいます。
 順峯も逆峯も同じ道を行きますが、順峯は天台宗の園城寺・聖護院系(本山派)の山伏が行い、逆峯は真言宗の醍醐寺三宝院系(当山派)の山伏が行いました(近世以降は両派とも吉野から入るのが一般的になりましたが)。

 園城寺の行尊はもちろん順峯で熊野から大峰に入りました。
 順峯・逆峯という言い方からもわかるように熊野はもともと天台系の山伏が支配していました。だから、初代の熊野三山検校に園城寺の増誉が選ばれたのでしょう。あるいは増誉が熊野三山検校に就いたから天台系の山伏が熊野を支配するようになったのかも。

 いずれにしても、増誉以降、熊野三山検校には園城寺か聖護院の僧が就きました。
 聖護院は、増誉が熊野御幸先達の功により白河上皇より賜った寺。聖体護持から二字を取り聖護院と勅称されたと伝えられています。京都市左京区聖護院中町。四世門主に後白河天皇の皇子・静恵法親王が入寺されて以来、門跡[皇子・貴族などが住まう寺院]となり、聖護院門跡が熊野三山検校を務めることとなります。
 また、白河上皇以降の熊野御幸の先達をつとめたのも、園城寺・聖護院の修験者です。

『玉葉和歌集』より1首

8.熊野の社殿の前で詠んだ歌

   熊野に参りて御前にて読み侍ける /大僧正

人こそはわが心をば知らねども 神はあはれとなどか見ざらん

(訳)人は私の心を知らないけれども、神が私の心をすばらしいと思わないことがどうしてあろうか。

(巻第二十 神祇歌 2756・新2742)

『新拾遺和歌集』より1首

9.大峰奥駈道にある吹越の宿(ふっこしのしゅく)という所で詠んだ歌

   大峰の吹(ふき)こしといふ宿に、泊まりあひたりける山ぶしさきたちて立ちければ

又いつとあひみんことを定めてか露のうき身を置きて行くらん

(訳)??

(巻第八 離別歌 749)

 熊野から吉野まで大峰奥駈道の道中には「大峰百二十宿(しゅく)」といわれるおよそ120ケ所の拝所が設けられていますが、吹越の宿はそのひとつ。

『行尊大僧正集』より1首

10.大峰奥駈道の入口に当たる備の宿(そなえのしゅく)で詠んだ歌

   最初(さいそ)のそなへといふとまりにて

たきのみずしきびをさなへつつこころをおこすはじめなり

(訳)滝の水と樒(しきみ)をそなえながら、ここが心を発こす初めの宿であるのだなあ。
 「心を発こす」「発心」とは「発菩提心(はつぼだいしん)」、「仏道に入り、仏智を証する志をおこす」という意味の言葉。
 備の宿は本宮旧社地の熊野川対岸の備崎(そなえざき)にあり、大峰奥駈道の入口とされた。

行尊について

 行尊は第二代の熊野三山検校(熊野三山の統括者)を務めました。検校(けんぎょう)とは社寺の総務を統括する役職のことで、つまり、熊野三山検校とは熊野三山を統括する最高位の役職です。

 この役職が設けられたのは、白河上皇(1034~1129)の1回めの熊野御幸の折(1090年)。
 このとき、園城寺の長吏(最高責任者)で、顕密修験の三宗に通暁した当代一の高僧として名高かった増誉(ぞうよ。1032-1116)が先達(せんだつ。道案内人)を務め、その功により増誉は初代の熊野三山検校に任命されました。これにより、それまで都から独立していた感のある熊野三山が中央との結びつきを得ることができたものと考えられます。花山法皇のときからおよそ100年ぶりに再開された熊野御幸には、この増誉の働きかけがあったものと思われますが、しかし、増誉が熊野三山検校であった時期に熊野御幸が行われることは二度とありませんでした。

 1116年、増誉が85歳で亡くなると、修験無双の高僧として朝廷の尊崇を受けていた行尊が後継者として園城寺長吏となり、熊野三山検校にも任命されます。そして、この年、白河上皇の熊野御幸が26年ぶりに再開されました。
 これ以降、17年、18年、19年、20年と毎年、熊野を詣で、少し間を置いて25年、27年、そして、亡くなる前年の28年と、合わせて9回の熊野御幸が行われました。御幸再開後はほぼ1年半に1回のペース。
 この度重なる熊野御幸には「毎年の御熊野詣、じつに不可思議の事なり」と関白・藤原忠実が苦言を呈したほどでしたが、参詣の回数が多ければ多いほど熊野権現の功徳が深まるという考え方に基づいて行われたのでしょう。修験道では、修行の度数の多さによって臈を積むという考え方があります。この考え方をおそらく行尊が白河上皇に植えつけたものと思われます。

 行尊が熊野三山検校であった時期に、熊野御幸が年中行事化し、熊野信仰が大いに盛んになりました。また、この時期に、参詣ルートも中辺路に固定化、参詣作法も天台修験の流儀が定着。
 行尊自身が熊野御幸の先達をつとめたのが史料的に確認できるのは、白河・鳥羽両上皇を通じて3回だそうですが、他の御幸では代わりに行尊の弟子が先達をつとめています。1127年の白河上皇8回目の、鳥羽上皇・待賢門院を同道させた三院御幸の先達を務めたことが史料にあるそうですが、このとき、行尊は70過ぎ。70歳を過ぎて、京から熊野まで歩きとおすとは、さすが修験で鍛えた体です。
 なにはともあれ、後世、「蟻の熊野詣」といわれるほど多くの人々を集めた熊野参詣の基礎を作ったのが、第二代熊野三山検校・行尊であるということがいえると思います。

 行尊とはどんな人物だったのか、ざっと見ていきますと、行尊は1055年、参議・源基平(もとひら)の三男として生まれました。
 父・源基平は、三条天皇第1皇子である小一条院 敦明(あつあきら)親王の子です。敦明親王は後一条天皇の御代、皇太子でしたが、自分の外孫の皇子を皇位につけようとする藤原道長の圧力により皇太子を辞し、とくに院号を賜り、小一条院となりました。
 つまり、行尊は三条天皇のひ孫。行尊の姉、基子は後三条天皇女御になっています。
 高貴な生まれの行尊でしたが、10歳のときに父が亡くなり、2年後に園城寺で出家。17歳のころから、大峰・葛城・熊野など各地の修験道の霊場で修行に打ち込み、修験無双の高僧として尊崇を集めるようになります。
 1107年、鳥羽天皇が即位すると直ちに護持僧に任じられ、以後、加持祈祷により天皇や白河上皇などの病を癒し、あるいは物の怪を調伏しました。その功により1111年には権大僧都になります。このとき、行尊、57歳。
 1116年、増誉大僧正が亡くなると、後継者として園城寺長吏となり、熊野三山検校となります。1121年には僧正に昇り、1123年、天台座主となりますが、わずか6日辞退。1125年、大僧正となります。そして、1135年、園城寺で81歳の生涯を閉じました。

大峰山中で詠んだ歌

 冒頭にご紹介した 『小倉百人一首』に採られた行尊の歌。

もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし

(訳)山桜よ、私がそなたを愛しく思うのと一緒に、そなたも私を思っておくれ。今の私にはそなたよりほかには、私を知っているものもないのだから。

 『金葉和歌集』(第巻九 雑部上 521)に載るこの歌の詞書には「大峯にて思ひがけず桜の花を見てよめる」とあります。
 大峰とは吉野から熊野へと連なる大峰山系のことで、修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が開いたと伝えられる修験道第一の根本道場です。
 十二歳のときに園城寺で出家した行尊は、十七歳のころから大峰・葛城・熊野など各地の霊場で山林修行に励みます。
 人界から隔絶した山中奥深くに修験者は分け入り、山に起き伏し、難行苦行を重ねます。
 修験者は人間社会を離脱し、全くの野生状態にある自然の中に分け入り、野生の力に触れることにより、超自然な力を獲得しようとしました。

 大峰の山中でひとり修行していた行尊。
 厳しい修行のさなか、行尊は一本の山桜に出会い、その美しさに感動します。
 誰も見る人もいない山のなか、ただひとり凛々しく咲く山桜。
 行尊は、山桜に自分の姿を重ねて、自分もかくありたいと願い、共感を込めて呼びかけたのでしょう。

 家集『行尊大僧正集』では、この歌は次のような歌の流れのなかに置かれています。

   山の中に桜の咲きたるに、つぼみたるをさへ吹き散らされて侍りしを見て

山桜いつを盛りとなくしても あらしに身をもまかせつるかな

   風に吹き折られて、なほをかしく咲きたるを

折りふせて後さへ匂ふ山桜 あはれ知れらん人に見せばや

もろともにあはれと思へ 山桜花よりほかに知る人もなし

 この並び方ですと、二首めと三首めが同じときに詠まれた歌だと考えることができます。
 風に枝を吹き折られた山桜が、それでもなお美しく花を咲かせている。
 そのたくましい生命力。行尊は感動し、厳しい修行にひとり打ち込んでいる自分の姿を山桜に重ねたのでしょう。

 行尊は『金葉和歌集』以下の勅撰集に48首入集していますが、そのなかから修験者らしく修験道の根本道場である大峰に関わる歌をまずいくつかご紹介します。

   大峰の生(しょう)の岩屋にてよめる

草の庵(いほ)なにつゆけしとおもひけん漏らぬ岩屋も袖はぬれけり

(訳)草の庵ばかりをどうして露に濡れると思ったのだろう。雨露の漏らない岩屋でも袖は涙で濡れるのだなあ。

(『金葉集』巻第九 雑部上 533)

 修行の辛さを詠んだ歌。笙ノ窟(しょうのいわや)は、大峰山系の一峰、日本岳(標高1505m、文殊岳とも)の上下数百mの絶壁にある岩窟。
 間口およそ11m、奥行およそ5m。中央に不動明王の石像が置かれています。役行者冬籠りの古跡といわれ、修験道の重要な行場のひとつ。道賢や日蔵や西行などが窟籠りの修行をしています。
 私も幾度かここに来たことがありますが、たしかに何日もこんなところにいたら、寂しさに泣けてきます。

   大峰の神仙(しんせん)といふ所に久しう侍(はべり)ければ、同行ども皆限りありてまかりければ心細さによめる

見し人はひとりわが身にそはねども遅れぬ物は涙なりけり

(訳)仲間は一人として我が身とともにはいないが、私に遅れずについてくるものは、私の涙であったのだなあ。

(『金葉集』巻第九 雑部上 576)

 一緒に修行していた仲間皆に限界が来て、自分を置いて全員が山を降りてしまった……
 ひとり残った行尊の寂しさが伝わってきます。
 神仙(現在では「深仙(じんぜん)」という)は宿(しゅく)のひとつでは、大峰山脈、大日岳〔標高1595m)と釈迦ケ岳(標高1800m)の間にある小広い平坦地にあります。宿とは、奇岩・奇窟・巨木・山頂・滝など神仏の宿るところで、修験の行場とされ、中世の大峰には100以上の宿があったそうです。
 深仙ノ宿は、かつて本山派(天台系修験)が伝法灌頂を行ったとても重要な行場です。
 修験道が峯中で行う10種の修行の段階、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天・声聞・縁覚・菩薩・仏のそれぞれに当てはめられた、床堅・懺悔・業秤・水断・閼伽・相撲・延年・小木・穀断・正灌頂の行のうちの最終段階、仏の行に当たる正灌頂がここで行われたそうです。

   歎く事侍りけるころ、大峰に籠るとて、同行どももかたへは京へ帰りねなど申てよみ侍ける

思ひ出でてもしも尋ぬる人もあらばありとないひそ定めなき世に

(訳)私を思い出して安否を尋ねる人がもしあれば、生きているとはいうな。無常の世なのだから。

(『新古今集』巻第十八 雑歌下 1833)

 これもまた修行者らしい歌です。

(てつ)

2002.2.3 UP
2003.3.22 更新
2003.4.11 更新
2003.12.6 更新
2004.8.1 更新
2020.7.27 更新

参考文献