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平忠度

平忠度が詠んだ熊野関連の歌

平忠度生誕の地
平忠度生誕の地の石碑

 熊野のことを詠んでいるわけではないのですが、熊野出身の歌人ということでご紹介いたします。

 平忠度(たいらのただのり:?~1184)は、平忠盛の六男。清盛の異母弟。薩摩守(さつまのかみ)。武芸にも歌道にも優れた武将でした。妻は第18代熊野別当湛快(たんかい)の娘で、湛増(たんぞう)の妹。
 忠度は熊野生まれの熊野の育ち。熊野川沿いの音川が生誕の地と伝えられます。忠度の母と妻についてこちら

 忠度は歌人として名高く、「み人知らず」として入集した『千載和歌集』の1首を含めると勅撰和歌集に11首入集しています。平家一門としては父親の忠盛が17首、兄の経盛が12首、勅撰集に入集しており、忠度の11首はそれに継ぐものです。

『平家物語』より1首

 平家物語』巻第九「忠度最期」より。

   旅宿の花

行き暮れて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし

(訳)旅の道中、日が暮れて、桜の木の下を今夜の宿とするならば、桜の花が主人としてもてなしてくれるだろう。

 忠度が一の谷合戦にて岡部六弥太に討ち取られたとき、忠度は名を明かさなかったのですが、箙(えびら)に結びつけられたふみに、この歌が書かれていて「忠度」と名が記されていたので忠度だと判明し、忠度が討たれたことを知った者は、敵も味方もその死を惜しんだ、と『平家物語』では語られます。詳しくは「熊野の説話:平忠度の最期」で。

勅撰和歌集より11首

1.『千載和歌集』より1首(巻第一 春歌上  66)

   故郷花といへる心をよみ侍りける   よみ人しらず

さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな

(訳)さざなみの寄せる志賀の都は荒れ果ててしまったが、長等山の桜だけは昔と同じように咲いていることだ。
 「さざなみ」は「志賀」の枕詞。「ながら」は地名の「長等」に「昔ながら」を懸けたもの。

 都落ちの際、忠度は途中で引き返し、和歌の師である藤原俊成の屋敷へ赴き、自作の歌100首ほどを書きつけた巻物を俊成に託して、1首なりとも勅撰集に採用してほしいと願って立ち去り、その後、一の谷にて壮絶な戦死を遂げました。
 俊成は忠度の願いを叶え、託された歌のなかから1首を『千載集』に採用しましたが、朝敵となった忠度の名を憚り、詠み人知らずとして掲載しました。

2.『新勅撰和歌集』より1首(巻第十三 恋歌三 854)

たのめつゝこぬ夜つもりのうらみてもまつより外のなぐさめぞなき

(訳)期待させながら来ない夜が積もり積もった。(津守の浦を見ても松より他に慰めとなるものはないが、)恨んでみても、待つよりほかに慰めなどないのだ。
 女性の立場で詠んだ歌。
 「つもり」は「積もり」と「津守」という地名の掛詞。津守は摂津国の歌枕で、松の名所。今の大阪市西成区の辺り。
 「うら」は浦・恨の掛詞。「まつ」は待つ・松の掛詞。

3~6.『玉葉和歌集』より4首

3.(巻第八 旅歌 1117)

   平経正朝臣摂津国にまかりて、など音づれぬぞと申して侍りける返事に申しつかはしける

われのみやいふべかりける別れ路は行くもとまるもおなじ思ひを

(訳)甥の平経正が摂津国に行って「どうして音信をくれないのか」と言ってきたときの返事に。
 どうして私だけが悲しみを言うべきだろうか。別れにあっては、行く者も、留まる者も、同じ思いなのに。
 平経正は、忠度の兄経盛の子。

4.(巻第九 恋歌一 1391)

   年をへてつれなく侍りける女に

うらみかねそむきはてなんと思ふにぞうき世につらき人も嬉しき

(訳)恨みかねて離れてしまおうかと思うが、浮き世に辛い人も

5.(巻第九 恋歌一 1338)

   何となくいひかはしける女に、したしきさまになるべきよしをいはせ侍りて後、心をきたるさまに見えければ

いとはるゝかたこそあらめ今更によそのなさけはかはらざらなん

(訳)?

6.(第十八 雑歌五 2554)

   述懐歌の中に

ながらへばさりともと思ふ心こそうきにつけつゝよはりはてぬれ

(訳)命長らえると「そうであっても」と思う心が、弱わり果ててきた。

7.『続後拾遺和歌集』より1首(巻第三 夏歌 171)

   郭公をよめる

住吉の松としらずや子規岸うつ浪のよるもなかなん

(訳)住吉の松と知らないのか。ホトトギスが波が岸を打って寄っても鳴かない。

8~9.『風雅和歌集』より2首

8.(巻第六 秋歌中 623)

   遍昭寺にて人々月見侍りけるに

あれにける宿とて月はかはらねどむかしの影は猶ぞ床しき

(訳)荒れたといっても月は変わらないが、昔の月影はやはり心ひかれるものがあった。

9.(巻第十八 釈教歌 1058)

   普門品、即得浅処の心を

おり立ちて頼むとなれば飛鳥川ふちも瀬になる物とこそきけ

(訳)降り立って頼むとなると、飛鳥川の淵も瀬になると聞く。

10~11.『新拾遺和歌集』より2首

10.(巻第十一 恋歌一 945)

   互忍恋といふことを

恋死なん後の世までの思ひ出はしのぶこゝろのかよふばかりか

(訳)私は恋に死んでしまうだろう。来世まで持ち越す思い出といったら、2人で堪え忍んだ恋心だけか。

11.(巻第十二 恋歌二 1090)

   恋歌の中に

うき世をばなげきながらも過ごしきて恋に我身やたへす成なん

(訳)浮き世を嘆きながらも過ごしてきた。恋に我身は?

たぶん『忠度集』より

 どの歌集に収められたものか確認できませんでしたが、熊野のとある場所を詠んだかもしれない歌が1首ありました。

小夜ふけて月かげ寒み玉の浦のはなれ小嶋に千鳥なくなり

(訳)夜が更けて月明かりが寒いので、玉の浦の離れ小島で千鳥が鳴くのだなあ。

 玉の浦については諸説がありますが、和歌山県那智勝浦町粉白から浦神にかけての入り江を玉の浦と呼びます。

 以上。訳せなかったものやよくわからないまま訳しているものもありますので、おかしな点などございましたら、ご教示いただけたら嬉しいです。

平忠度ファンサイト「ただのり」

(てつ)

2011.9.1 UP
2020.4.20 更新

参考文献