み熊野ねっと 熊野の深みへ

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み熊野の浦

序詞 み熊野の浦の浜木綿

浜木綿

 み熊野は熊野の美称で、み熊野の浦はどこか一つの浦をいうのでなく、熊野の海辺全般のことをいうのだと思います。 

 和歌の世界では「み熊野の浦」といえば浜木綿が連想されます。
 浜木綿は、ハマオモトのこと。海辺に生えるヒガンバナ科の多年草。花が木綿(ゆう。コウゾの皮の繊維で作った白い布)でできているかのように見えることから浜木綿(はまゆう)といいます。幾重にも葉が重なっているので、「重ねん」「百重なる」「幾重なる」などを起こす序詞となりました。

浜木綿

 「あなたへの思いが幾重にも重なっています」というときに「み熊野の浦の浜木綿」が詠み込まれます。したがって「み熊野の浦」が詠み込まれた和歌は基本的に恋の歌になります。

柿本人麻呂

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

『万葉集』(巻第四 496・新499)

み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思へど 直に逢はぬかも

(訳)熊野の浦の浜木綿の葉が幾重にも重なっているように、幾重にも幾重にも百重にもあなたのことを思っていますが、直接には会えないことだ。
「み熊野の浦の浜木綿」は「百重なる」や「幾重なる」などの序詞。

『拾遺和歌集』(巻第十一 668)

み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なる心は思へどただに逢はぬかも

(訳)熊野の浦の浜木綿の葉が幾重にも重なっているように、幾重にも幾重にも百重にもあなたのことを思っていますが、直接には会えないことだ。
この歌は『万葉集』巻第四の496の歌の異伝。

 和歌山県新宮市三輪崎(みわさき)の海岸近くの孔島(くしま)という小さな島は、浜木綿(はまゆう)の群生地として知られていて、そこには、人麻呂の「み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思へど 直に逢はぬかも」(『万葉集』巻第四 496・新499)の歌碑が建っています。

伊勢

伊勢(いせ)

『新古今和歌集』(巻第十一 恋歌一 1048)

   題しらず/伊勢

み熊野の浦よりをちにこぐ舟のわれをばよそにへだてつるかな

(約)熊野の浦から遠くに漕ぐゆく舟のように、あなたは私を遠くに隔てたのですね。

平兼盛

平兼盛(たいらのかねもり。?~990)

『拾遺和歌集』(巻第十四 恋四 890)

   屏風にみ熊野の形描きたる所

さしながら人の心を見熊野の浦の浜木綿幾重なるらん

(約)ありありとあなたの心を見てしまった。み熊野の浦の浜木綿の葉が幾重にも重なっているように、あなたの私を隔てる心の壁は幾重にもなっているのだろう。

道命阿闍梨

道命阿闍梨(どうみょうあじゃり。974~1020)

『後拾遺和歌集』(巻第十五 雑一 885)

   熊野へまい(ゐ)るとて、人の許(もと)に言ひつかはしける /道命法師

忘るなよ忘ると聞かば み熊野の浦のはまゆふうらみかさねん

(訳)忘れないでください。もし忘れたと聞いたならば、熊野の浦の浜木綿のように重ね重ね恨みますよ。

後深草院少将内侍

後深草院少将内侍(ごふかくさいんのしょうしょうないし。正四位下左京権大夫藤原信実の娘。鎌倉時代)

・『夫木和歌抄』(巻二十三 雑五 10581)

三熊野のうらわに見ゆるみふねじま かみのゆききに漕ぎめぐるなり

(約)み熊野の浦廻(うらわ。海岸の曲がりくねった所)に見える御船島。神の往還に御船島を漕ぎめぐるのだなあ。

 浦廻とは海岸の曲がりくねった所をいう言葉で、現在は河口から2kmほど上流に浮かぶ御船島ですが、当時は現在よりも海に近かったのでしょうね。

作者不明

10世紀末頃に成立したとされる中古の物語『落窪物語』より。作者は不明。

・『落窪物語』巻二―落窪姫君―

へだてける人の心をみ熊野の浦のはまゆふいくへなるらむ

『建保名所百首』から12首

 建保3年(1215年)に成立した、全国の名所100ヶ所を春・夏・秋・冬・恋・雑の6つに分類して和歌1200首を収めた歌集『建保名所百首』では「み熊野の浦」は恋の部に入れられています。

 

(てつ)

2005.8.30 UP
2011.11.9 更新
2020.3.18 更新

参考文献