■ 全国熊野神社参詣記

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 日照院さんから投稿いただきました。ありがとうございます。


新羽杉山神社の熊野社遺物

新羽杉山神社

新羽杉山神社 鎮座地 神奈川県横浜市港北区新羽町2576

旧熊野社鎮座地・横浜市港北区新羽町1452-2近辺

 横浜市港北区新羽町にはかつて熊野社があった。江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』によれば「熊野社 除地一段四畝、字中の久保にあり。本社三間に三間、拝殿三間に二間、巽に向かう。神体阿弥陀の石像にて長さ一尺許り。例祭は七月二十三日」とあり、同町内の西方寺が管理を行っていたという。しかし明治四十一年、荒神社(大竹)、皇太神社(南)など村内の数社とともに新羽杉山神社へ合祀された。
 詳細な由緒などは調べが及んでいないが、享徳三年から四年(1454〜55)にかけて新羽の「重蔵坊」の栗田一門・成田一門などの旦那が熊野実報院に売却される旨の史料があるといい、当時より熊野の勢力の影響が当地に及んでいた事がわかるという。

 また文明十八年(1486)に京都から東国を回り、「廻国雑記」を記した道興准后という人物が旅の中で新羽を通っている。
 「廻国雑記」は旅行記というよりも道興が道すがら読んだ歌などの記録であり立ち寄った場所でどんな体験をしたかはほとんど記されていない。そのため旅の目的はよくわかっていないが、彼は天台宗の高僧で聖護院門跡や熊野三山並新熊野検校職などにも就いており、熊野修験の教化の為の旅であったとされる。
 新羽についての記載も地名を乗せるのみである。しかし記述からすると浅草より鎌倉へ向かう道中で、駒林(横浜市港北区)から新羽、帷子(横浜市保土ヶ谷区) と通過している。駒林から帷子へ抜けるには新羽を通る必要がないので、何か理由があって寄ったのだろう。当時の新羽に彼があえて立ち寄る必要のあった寺社や組織が存在していたことが考えられる。以上のことがこの地の熊野神社の創建に関わるかどうかは明らかでない。

 合祀先の新羽杉山神社は約八百年前の創建を伝え、当地が荷場(ニバ⇒ニッパ⇒新羽)の郷と呼ばれる水郷地帯であった頃より地域住民によって奉祀されているという。『新編武蔵風土記稿』によれば、当地の字を三谷、また八朔堂ともいうといい、御神体として菅神(菅原道真、天神)のような像を祀っており、それ以前は不動明王の石の立像を本地仏として祀っていたと書かれている。当時は同村内の西方寺が管理していた。
 旧新羽村内にはもう一社杉山神社があり、北新羽杉山神社と呼ばれて現存する。杉山神社は南武蔵に多くあるが、式内社でありながら謎の多い神社である。ちなみに隣村吉田村(現新吉田町)の杉山神社は所在地不明といわれる総本社の有力候補の一つといわれている。

 新羽杉山神社の祭神は日本武尊であるが、現在は合祀した神社の祭神「火産霊神・奥津産神・奥津姫神・武御名方命・天照大神・大己貴命・少彦名命・倉稲魂命・菅原天神・伊弉冊命・速玉男命・事解男命・天照皇大神」等の神々も併せて祀られている。この中で伊弉冊命・速玉男命・事解男命は熊野神社の祭神である。

 境内社に金毘羅宮、御嶽社があるが、両者は合殿で一緒に不動明王の石仏も祀られている。この社の脇に熊野社の遺物である石の表額と三体の石仏が安置されている。

新羽杉山神社境内社
境内社

熊野社の遺物
熊野社の遺物

 三体の石仏のうち、如来立像は宝永二年(1705)造立、如来坐像と菩薩坐像には寛政十年(1898)造立の旨が彫られ、それぞれ像の光背上部に「熊野」という文字が彫られている。像の形から、宝永造立の如来立像は阿弥陀如来、如来坐像は薬師如来(定印型)、菩薩坐像は正観音(来迎様)であることが分かる。
 ある本にこれらの内二体は熊野社の守護神、一体は神官像であると書かれていたが、どうもこれらは熊野三所権現の本地仏らしい。正観音は本来千手観音であるべきであろうが、千手観音は煩雑なので正観音に略されたのであろう。
 『新編武蔵風土記稿』の「弥陀の石像」とはこの中の如来立像の事で、当時は立像の阿弥陀如来が一体だけ祀られており、他の二体は後から加えられたのだろう。

 これらの石仏は神仏混交時の姿を伺わせる貴重な遺物といえよう。かつてはこうした像でも神社に祀られていて不思議でなかったのである。それにしても神社本殿と金毘羅・御嶽社の間の隙間のようなところに安置されていて、少しお参りもしにくいのが残念である。
 現在の杉山神社で使用されている本殿(内殿)は熊野社の本殿として造られたもので、「寛政十戊午歳六月吉祥日(中略)奉造立熊野三社大権社頭一宇」と記される棟札も保存されている。熊野三社を祀るにふさわしい三間向拝(正面に観音開きの扉が三つ並ぶ)で、精緻な彫り物や組物が施されており、在りし日の熊野社の威容を窺わせる。

 熊野社の旧鎮座地を探して新羽地区を歩いてみた。新羽地区は東側の鶴見川沿いは工業団地になっているが、西側は谷戸と台地が入り組んでいて、里山や畑も残り、所々には庚申塔や小祠などもあり、散歩するには楽しいところである。
 神社の案内板には熊野社の旧鎮座地を「中久保」と書いている。まず中久保という地名を探してみた。地元の方に伺ってみると、新羽小学校のある丘を境に南側を「南(ミナミ)」、北側を「中久保(ナカノクボ)」というのだとか。
 しかしその方は神社があったという話は御存じなかったので、さらに新羽小学校の近くの専念寺の辺りで畑仕事をなさっていた方にお尋ねしたところ、「昔(専念寺の西の)畑の中に鳥居があって、新羽小学校のところに神社があったと聞いている」と教えてくださった。どんな神社だったのかとか、社号などもわからないが、そこあったものは全部杉山神社に移動したと聞いた、という。

 別のところで作業をなさっていた方に伺うと、「熊野神社という神社が新羽小学校の所にあった。小学校の裏の階段の道は参道となっていたが、この道は女坂(裏参道)で正面は中の久保の方から上がったのだろう。熊野神社は中久保の氏神で、南には天照皇太神宮があった。両方とも現在跡らしいものは無い」という事であった。もう八十歳になられるというこの方は新羽地区の昔のことをいろいろとご存知で、天照皇太神宮の石段の話や北新羽杉山神社の合祀に関する話、地区のダンゴ焼きという行事や庚申塔の目の病気に関する信仰について、南にある亀の甲山の歴史や専念寺のお十夜の話など、さまざまなお話をしてくださった。

女坂
女坂

 話が反れるが、中久保地区は疫病除けに藁蛇を作る百万遍注連引祭で名高く、現在では新羽小学校の地域を学ぶ授業にも取り入れられているというお話も教えていただいた。作った蛇は地区の庚申塔に供えていたが、現在では新羽小学校の校庭や杉山神社の水屋などに飾られている。かつては中久保だけの民俗行事であったが、小学生も授業で小さな蛇を作り、学区中の家々が軒先に下げるなどしているという。

藁蛇 藁蛇

 閑話休題。明治時代の地図を見てみたところ、ちょうど新羽小学校の辺りに神社の標識があり、南北に二本の参道らしい道も書き込まれている。どうやら新羽小学校のあたりに熊野神社はあったらしい。女坂だったという階段を上がって小学校まで行ってみたが、どうやら旧鎮座地には何も残っていないようだ。

 明治まで管理にあたっていた西方寺ははじめ鎌倉極楽寺に創建され元弘三年(1333)に当地に移ったもので、真言宗の古刹である。本尊は平安時代作の阿弥陀如来坐像で県の指定重要文化財で、他に観音堂に安置される十一面観音・大吉祥菩薩の立像も平安時代のものとされている。小机三十三ヶ所観音霊場の札所にもなっており、子年の開帳が盛大に行われるほか、毎年の正月には港北七福神のお参りで賑わう。地元の方は「サイホウジ」ではなく「セイホジ」と呼んでおられた。

西方寺
西方寺

 お話を聞かせてくださった地元の方々には心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

地図(goo地図)
熊野神社旧鎮座地

新羽杉山神社

Thanks 日照院さん

2006.1.1 UP
No.491

 

神奈川県横浜市港北区新羽町

読み方:かながわけん よこはまし みなとく にっぱちょう

郵便番号:〒223-0057

横浜市HP

横浜市 - Wikipedia
横浜市(よこはまし)は、関東地方の南部、神奈川県の東部に位置する市で、神奈川県の県庁所在地である。政令指定都市と業務核都市に指定されている。
人口は、東京特別区(東京23区)に次いで日本第二位であり、日本の市町村では最大である。又、面積も、神奈川県内の自治体では最大である。

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