後白河上皇が御所の東北の地に創建、京の三熊野のひとつ
この神社は熊野三山の本宮大社に相当します。
ついでながらなお山王町の熊野神社が速玉大社、若王子町の熊野若王子神社は背後の東山中に滝を持ち那智大社に相当します。これで京洛にも熊野三山がそろいましたね。
祭神
伊邪那美命
配
後白河上皇
御由緒
永暦年間(1160年)、法住寺殿造営に当たり、後白河院が新日吉社とともに勧請。
熊野から土や楠を持ってこさせ、今なお樹齢800年以上の大楠となり、大樟之社としての神木です。
以下、神社本庁 平成祭礼データから。
新熊野神社の「新」は「あたらしい」ではなく、「あらたかな」熊野神社の意味です。
又「新」を「いま」と読むのは、「新」は「いま(今)」に通じ、日々新しい心で、「今」を充実して大切に生きる神様の教えの現れです。伊邪那美命、速玉男命、事解之男命、天照大神を主神とし、天忍穂耳命他3柱の皇祖皇宗の神、軻遇突智命他3柱の生活と産業を守る神々12柱祀られている。特にこの世とあの世への厄災をはらい清める神々が祀られている。(新熊野12社権現とも称す)
後白河上皇は、紀州国(今の和歌山県)の、熊野三山(本宮、新宮、那智宮)を尊崇し、平清盛公を造進使として、熊野の霊地をこの地に再現するため、遥々熊野より土砂材木などを運び、地境を築き、宮殿を造り永暦元年(1160)上皇の御所「法住寺殿」の東北の地に熊野の新宮を創建された。これが現在の新熊野神社である。
創建の頃は、古書に「宮殿廻廊甍を並べ金銀珠玉を鏤ばめ……繁栄は他社に冠絶していた」とある。応保2年(1162)。勅使(平清盛公)参向し、大神宮の例に準じて行われた。(官幣の大社)養和元年(1181)当社永代維持のため、諸国28ヶ所の庄園、社領が寄進され、以後300有余年間社殿堂宇魏然として在立し、祭儀連綿として厳修された。しかれども応仁の兵火以後衰微し、又度重なる兵火により壊廃し、天文年間を以て祭儀不能、以後120年間廃絶同様の状態であった。しかるに4代徳川家綱の時、後水尾上皇の中宮東福門院は、当社の復興を発願され、禁中を始め、諸御所や将軍家諸大名より寄進を得、寛文13年(1673)聖護院宮道寛法親王により再建されたのが、現在の社殿である。社殿は入母造妻入の熊野造の古制を伝える全国的にも類例の少ない貴重な遺構で、京都市の重要建造物である。
たたづまい
東山通りの車と人の行き交う道にへばりつくように楠木がこんもりとした生命力を発している。
「おれが熊野だ!」との叫び声が聞こえそうだ。
東山通りを作るために神社境内が削られたようで、大きい木々や神社の割りには社域が狭いと思う。
その上に何故か境内に車が目立つ。安全祈願の様子ではない。
あまりいい感じではないどすえ。
(神奈備さん)
No.131
2002.4.24 UP
2020.7.15 更新
参考文献
- 神社本庁 平成祭礼データ