補陀落渡海の出発点、那智の浜
那智の浜近くにある補陀洛山寺は「補陀落渡海」の出発点だったことで知られています。
「補陀落渡海」とは、補陀落を目指して船出すること。
「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住まう浄土のことをいいます。『華厳経』にはインドの南端にあると説かれているそうですが、観音信仰の流布とともに、チベットや中国にも補陀落は想定されました。チベットではラサ北西に建つ、観音の化身ダライラマの宮殿をポタラ(補陀落)宮と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を補陀落としました。
日本においては南の海の果てに補陀落浄土はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して船出することを「補陀落渡海」といいました。
25人の渡海僧
日本国内の補陀落の霊場としては那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがありましたが、記録に残された40件ほどの補陀落渡海のうち半数以上が那智で行われています。熊野は補陀落渡海の根本道場といってもよい場所でした。
那智の浜からは25人の観音の信者が補陀落を目指して船出したと伝えられています。
補陀洛山寺境内にある石碑に、それらの人々の名が刻まれています。
平安前期の貞観十年(868)の慶龍上人から江戸中期の亨保七年(1722)の宥照(ゆうしょう)上人まで25人。
平安時代に5人。鎌倉時代に1人。室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)。安土桃山時代に1人。江戸時代に6人。
寺の裏には渡海した僧たちの墓が残されており、墓碑には「勅賜補陀落渡海○○上人」と記されています。
生きながらに流される棺桶の小船
渡海僧が乗りこんだ船を復元したものが補陀洛山寺境内にある建物のなかに展示されています。
奇妙な形をした小さな船です。それはまさに生きながらに流される棺桶の小船でした。
船の上には屋形が作られています。それからその屋形の前後左右を4つの鳥居が囲んでいます。
この渡海船の上に立つ4つの鳥居は「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の四門を表わしているのでしょう。修験道の葬送作法によると、死者はこの4つの門をくぐって浄土往生すると考えられています。
渡海船に立てられた4つの鳥居は、渡海船がそのまま葬送の場であることを表わしています。
展示されている船には帆は掛けられてはいませんが、船出の折には白帆があげられました。
補陀落渡海の多くは11月、北風が吹く日の夕刻に行われたそうです。
渡海僧は当日、本尊の千手観音の前で読経などの修法を行い、続いて隣の三所権現を拝し、それから船に乗りこんだのでしょう。
30日分の食料と灯火のための油を載せて、渡海僧は小さな屋形船に乗りこみました。
渡海僧が船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように扉には外から釘が打ちつけられたそうです。
渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われます。
渡海僧は、船が沈むまでの間、密閉された暗く狭い空間のなかでかすかな灯火を頼りに、ただひたすらお経を読み、死後、観音浄土に生まれ変わることを願い、そして、船は沈み、入水往生を遂げたのでしょう。
船のしつらえや渡海の方法などは時代により異なるのでしょうが、補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身を南海にて観音に捧げる捨身行だったのでした。
(てつ)
2008.2.28 UP
2019.7.24 更新
参考文献
- 加藤隆久 編『熊野三山信仰事典』戎光祥出版