古代中国の方士・徐福を祀る神社
紀元前3世紀の中国・秦(しん)の始皇帝に仕えた方士(神仙思想の行者)、徐福(じょふく)。
いまから2200年くらい前(日本でいえば弥生時代初期)に、始皇帝の 命により、東方海上に不老不死の仙薬を求めて三千人の少年少女とさまざまな分野の技術者を引き連れて船出し、熊野に上陸したと伝えられています。
その徐福を祀る神社が熊野市波田須町にあり、 波田須では次のような徐福渡来伝承が伝わります。
徐福一行は何十艘もの船で船出したが、台風に遭い徐福の船だけが波田須町の矢賀(やいか)の磯に流れ着いた。そのころ、波田須には家が3軒しかなく、その3軒の人たちで徐福らの世話をした。
徐福らは波田須に住み着くことを決め、「徐」姓を使わず、「秦」から波田・波多・羽田・畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗った。そして3軒の人たちに焼き物の製法や農耕や土木、捕鯨、医薬などの技術を伝えたとされる。
「波田須」という地名は「秦住」から来ており、「矢賀」という地名も徐福が付けたとされ、徐福が焼き物をした場所は「釜所(かまどころ)」と呼ばれるようになった。「釜所」は徐福が製鉄を始めた所とも伝わる。
徐福の宮は、波田須町矢賀の「矢賀の蓬莱山」とも呼ばれる丸山という小山の頂上に祀られていて、そこには徐福の墓も祀られています。明治の神社合祀により徐福の宮も波田須神社として統合され、廃社となりましたが、氏子たちの徐福への信仰心は消えず、合祀されていた期間においても密かに、中国人を神として祀っていることを隠して、徐福の宮を祀りつづけたようです。戦後に復社を果たしました。
徐福の宮には神宝として徐福から与えられたという外来技術で作られた須恵器のすり鉢が伝わり、また丸山からは焼物の破片や古代中国の通貨「半両銭」などが出土されています。半両銭は秦代から前漢にかけて使用された通貨で、国内では9か所の遺跡から25枚見つかっており、現存するのは19枚のみ。丸山から出土した半両銭は、2002年に中国の学者の鑑定により秦代のものとわかりました。
徐福渡来伝承地は熊野では、三重県熊野市波田須の他に和歌山県新宮市にもあり、どちらにも徐福の宮と徐福の墓があります。
阿須賀神社(境内社に徐福の宮) 和歌山県新宮市阿須賀
徐福公園(徐福の墓) 和歌山県新宮市徐福
(てつ、写真はてつ&そま)
2012.9.8 UP
2020.1.30 更新
参考文献
徐福の宮へ
アクセス:JR波田須駅から徒歩15分
駐車場:無料駐車場あり