蓬莱山の麓に鎮座
JR新宮駅から北東に徒歩10分。新宮(熊野速玉大社)の境外摂社とされた阿須賀神社。
近畿最長の河川である熊野川の河口付近南岸、熊野速玉大社よりさらに海に近いところにある蓬莱山(ほうらいさん)の南麓に鎮座しています。
蓬莱山は、南北110m、東西90m、標高48mメートル。山というよりも独立した小丘陵で、北側は熊野川に面しています。
円錐形をした神奈備山で、もともと阿須賀神社は蓬莱山を御神体とする自然崇拝の祭祀場であったのではないかと思われます。
また山の形だけでなく、河口にあるということも重要な点で、阿須賀の「須賀」は、砂洲、砂丘、砂浜など、砂がたまるところを意味する古語の「すか」から来ているようです。
熊野川の河口は狭く、砂が堆積して、ときに船を座礁させたり、ときに河口すべてを塞いで支流を氾濫させたり、災害を引き起こすことがありました。
それを防ぐことを願って地域住民が河口にある神奈備山である蓬莱山に水の神を祀ったのではないかとの思われます。
阿須賀神社の主なお祭りは神倉祭(2月6日)と神馬渡御式(10月15日)。どちらも他神社と合同で行われるお祭りです。
徐福伝説
蓬莱山という名は、徐福(じょふく)伝説との関連を連想させますが、ここ阿須賀には徐福が上陸したという伝説があります。
徐福とは、紀元前3世紀の中国、秦の時代の人物で、道教方士として始皇帝に仕えていました。
徐福は始皇帝の「不老不死の仙薬を探して来い」との命令を受けて、少年少女3000人を伴う大船団で東海に船出し、そして2度と秦に戻ることはなかったといいます。
その徐福が阿須賀の地に上陸し、蓬莱山の麓に住みついて、里人に農耕や捕鯨、造船、製紙などの技術を伝えたのだといいます。阿須賀神社の境内には徐福の宮が摂社として祀られ、徒歩で数分、北に行ったところには徐福の墓までもがあります。
徐福が暮らした跡かどうかはもちろんわかりませんが、戦後の発掘調査により境内からは弥生時代の竪穴式住居趾や土器類などが出土し、伝説に多少の信憑性を与えているような気がします(出土品は境内の新宮市立歴史民俗資料館に展示されています)。
稲荷神社と徐福之宮(右)
復元された竪穴式住居
熊野地方では他に熊野市波田須(はだす)にも徐福が上陸したとの伝説があり、徐福宮や徐福の墓が残されています。
三狐神
徐福の宮の隣にはやはり摂社の阿須賀稲荷神社があります。
これは古くは三狐神(みけつかみ)を祀っていたのでしょう。
奈良県十津川村にある玉置神社の『玉置山権現縁起』に、三狐神は「天狐・地狐・人狐」で熊野新宮の飛鳥(=阿須賀)を本拠とし、その本地は極秘の口伝であると記されてるのだそうです。
もともと「みけつかみ」は、食物を司る神であったようです。「御饌津神」と書き、「御(=尊称)饌(=食物)津(=の)神」で食物の神を意味します。
しかし、キツネのことを古語で「けつ」というため、「みけつかみ」が「三狐神」のように誤解され、その神は人々の意識のなかで、キツネの神に変容したものと思われます。
「御饌津神」はまたの名を稲荷神といい、「御饌津神」が「三狐神」になったために稲荷神は狐を使いとするようになったとの説があります。
三狐神は「狐の神」。「狐の神」というからには、おそらく辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)という「狐の王」になんらかのつながりがあるように思います。
辰狐王、菩薩となった白毛の狐の王。中世以降、徳川時代に成立したといわれる熊野の古文書『熊野年代記』の天智十年の項に「五月、飛鳥社に白狐が出現した」との記述があり、辰狐王菩薩を思わせます。
辰狐王菩薩はまたの名を茶吉尼天(だきにてん)。
茶枳尼天は、元はインドの、裸体のまま天空を自由に飛翔し、人間の肝を食らい、生き血をすする恐るべき女神でした。それが日本では白毛の狐の王と一体になります。
また、平安時代以降の神仏習合により、狐を使いとする穀物神・稲荷神の本地(本体)は茶枳尼天だとされます。
三狐神信仰は、御饌津神・稲荷神・辰狐王菩薩・茶枳尼天などの神仏と複雑に絡み合ってできているようです。
熊野発祥の地
阿須賀神は社伝によれば紀元前423年に創建されたそうですが、中古、火災により古文書を焼失したため、詳しいことはわかっていません。
阿須賀神社の現在の社殿は、昭和20年(1945)に米軍の空襲により付近の民家約200戸とともに焼失したため、戦後、昭和27年(1952)に再建されたものです。
阿須賀神社はじつは熊野発祥の地であるといわれています。古伝によると、
熊野大神は初め神倉山に降臨し、次に阿須賀の森に遷り、熊野大神のうち家津美御子はさらに貴袮谷に遷ったが、結速玉の二神はそのまま阿須賀の森に留まった。第十代崇神天皇の御代に家津美御子はさらに熊野川上流の音無の里(本宮)に遷り、結速玉は第十二代景行天皇の御代に今の新宮に遷座した。
とされ、阿須賀神社が本宮・新宮よりさらに古い歴史をもつことを主張しています。
実際、そうであったのかもしれませんが、熊野信仰の大きなうねりに巻き込まれて、阿須賀神社は熊野速玉大社の摂社という立場に落ち着いたのでしょう。
長寛(ちょうかん)元年(1163)から二年にかけて公家・学者が朝廷に提出した熊野の神についての書類をまとめて『長寛勘文』と呼びますが、『長寛勘文』に記載され、最古の熊野縁起譚だと考えられている『熊野権現垂迹縁起』にも阿須賀神社の名が登場しますが、先に述べた古伝とは少々違っています。
昔、唐の天台山の王子信が、高さ三尺六寸の八角の水晶となって、九州の彦山(ひこさん)に降臨した。それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽(ゆずるは)山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵(やぶち)の谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れ、これを、熊野部千代定という猟師が発見して祀った。これが熊野坐神社の三所権現であると伝えられる。
この話では熊野大神は阿須賀の森には鎮座せず、阿須賀神社の北、熊野川の対岸の三重県南牟婁郡鵜殿村矢渕の谷(貴袮谷社(きねがたにしゃ))に鎮座したことになっています。
本地仏は大威徳明王
阿須賀神社の祭神は事解男之命(ことさかのおのみこと)と家都御子大神・熊野速玉大神・熊野夫須美大神の熊野三所大神。
主祭神は事解男之命で、その本地(仏としての本体)は大威徳明王(だいいとくみょうおう)とされます。
大威徳明王は水牛にまたがる六面六臂六足という異様な姿をしています。世にまん延する一切の悪を降伏する仏であり、平安末期ころからは戦勝祈願の本尊とされた仏です。
6世紀に伝来された仏教は日本国内に普及していく過程のなかで、次第に神道との融和をはかるようになり、また、神道の側でも仏教との融和をはかるようになりました。
そうした流れのなかで、神の本体は仏であるという考え方が生まれました。本地垂迹(ほんじすいじゃく)説といい、仏や菩薩がもともとの本体であり、人々を救うために仮に神の姿をとって現われたのだという考え方です。本体である仏や菩薩を本地といい、仮に神となって現われることを垂迹といいます。また、仮に現れた神のことを権現(ごんげん)といいます。
こうした本地垂迹思想を受け入れることにより熊野三山は発展したのですが、阿須賀神社もまた本地垂迹思想を受け入れ、熊野信仰の一霊所として尊崇を受けました。
(てつ)
2003.1.19 UP
2003.2.3 更新
2003.3.13 更新
2013.7.23 更新
2020.2.25 更新
参考文献
- 久保昌雄/久保広晃 撮影、熊野文化企画 編集『今昔・熊野の百景』はる書房
阿須賀神社へ
アクセス:JR新宮駅から徒歩10分
駐車場:無料駐車場あり
観光プラン:お燈祭りをたどる旅