「御祈祷する時は、体を清めて恭しく神前に拝礼してオサゴ(白米)をまき、神棚より神体を下して熊野伊勢神を両手で持ち、病人の頭や肩、痛い所を軽くなでたゝきながら祓ひ給へ清め給へと拝みます。」とネフスキイ氏は記し、氏が取材したシンメイサマを祀る家のお歯黒の女性は「神明は拝みに来る人に時々乗り移って、其の人が歌ったり、踊ったり予言したりする事は能くあった事」と語ったそうです。
オシラサマとシンメイサマの異なる点は、シンメイサマには柳田氏の著書「大白神考」によると
「石城地方のシンメサマを持ち伝えた旧家も同様に、荘内のオクナイサマをおもりする家々でも、主婦は少なくとも一年に一度、この問題の木体を背に負うて、ホイトをしてあるかなければならぬ」
という特徴がある事です。つまりシンメイサマをお祀りする家の主婦が自分を知るものがいない遠方に出向いて祈祷をして歩き回るわけで、それがいつしか評判になって蔑視されることがあるため、シンメイサマの存在が秘し隠され、またその信仰が尋ね究めにくくなった原因の、主要なるものはこれらしい、とネフスキイ氏は柳田氏に語っていたそうです。
柳田氏が著書「大白神考」に、人がオシラサマを御神体として思うようになったことについて「祭のたびごとに取り卸して、両の手に持って『遊ばせ申す』ということが、すでに神体という常の観念からは離れている」と、書いているようにもともとは巫女が用いる神の「依り代」としての性質が強かったのが、巫女の減少とともにオシラサマのみが家に祀られている状態になり、御神体化していったのではないでしょうか。そしてシンメイサマが御神体として思われるようになったのも、同様な理由があるのかもしれません。
柳田氏は「執物(トリモノ)」の一例として熊野新宮(熊野速玉大社)の御船祭に登場する一物(ひとつもの)人形を挙げ、「熊野新宮の一つ物の萱の穂なども、遠く離れた大島浦の権現島、一名人形島に産するものを、ただ一本だけ採って献ずることになっていた。以前は十二本献じたというが、こちらはかえって誤りではなかったかと思う。権現島は始めて熊野権現の御降りなされたという霊地であった。その土に生長する萱の穂であるがゆえに、これを採物として祭の日に手に執らしめるということが、多分は他の総ての場合にも共通したこの習俗の要点であって、単にその採物の上端に神の顔を描き、また新しい布や絹をもって、祭のたびごとに覆い重ねて行くという一事を除いては、奥羽のオシラ神もまた各地新古の採物の、二つ物と称して左右一対を手に持つものと、用途においていささかの異なるところを見なかったのである。」と、記しています。
柳田氏に宛てネフスキイ氏は「神明やオシラ信仰は伊勢や熊野信仰との関係を調べて見たいのですから、是非とも貴兄の御垂示を待たれなければならぬと信じます。」と記述し、柳田氏は自著の「大白神考」にネフスキイ氏の研究の功績を称えています。
上記のような事から「シンメイサマ」は東北地方の民間信仰と熊野比丘尼等、熊野信仰を全国に広めた人々から流布した信仰の習合である可能性もあるのかもしれないと思うのです。
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