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熊野の深みへ

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熊野から

 熊野三山や熊野古道などは「紀伊山地の霊場と参詣道」として2004年に世界遺産に登録されました。その際に、とりわけ評価されたのが「神道と仏教のたぐいまれな融合」でした。それは「東アジアにおける宗教文化の交流と発展を示す」ものでした。

 世界遺産とは世界的に見て価値のあるものを人類共通の財産として守り、そして未来に伝えるというものです。ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)という国連の専門機関が行っている活動のひとつです。

 ユネスコの目的は、教育、科学、文化を通じて世界の平和と安全に貢献するということ。そして、そのユネスコの活動である世界遺産も、その大きな目的はもちろん世界の平和と安全への貢献にあります。

 ですので、世界遺産のある地域の住民は、自分たちが地域で行っていることが世界の平和と安全への貢献であることを意識する必要があります。

 私に出来ることは熊野の魅力を日本語で伝えることぐらいで、世界に対してほとんど無力ですが、それでも、世界の平和と安全に対して熊野に住む私ができることは何かと考えながらサイト運営を続けています。

 熊野の深層部には日本人の心を揺さぶるものがあり、その揺さぶりは日本の未来や世界の未来をよりよいものにしていくものだと私は確信しています。

(てつ@み熊野ねっと)
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熊野ってこんな場所

日本でいちばん霊験あらたかな場所

 熊野は「日本第一大霊験所」の称号を与えられた聖地です。
 日本でいちばん霊験あらたかな場所。
 日本中の人たちがそこに行きたいと憧れた日本にとって特別な場所が熊野です。

神仏習合

 熊野の神様は熊野権現と呼ばれます。「権現」とは字義的には「仮に現われた」ということ。何が仮に現われたのか。それは仏。
 熊野は神仏習合を積極的に受け入れたことで日本の聖地となりました。
 平安時代末期から鎌倉時代にかけておよそ100度の上皇の熊野御幸がありましたが、上皇を熊野に連れてきたのは修験者(山伏)でした。
 室町時代頃に「蟻の熊野参り」という言葉ができましたが、蟻の行列にたとえられるほど多くの人々を熊野に導いたのは時宗という鎌倉新仏教の一派でした。

浄土の地

 平安時代後期以降の浄土信仰の広がりのもと、本宮の主神の家都美御子神は阿弥陀如来、新宮の速玉神は薬師如来、那智の牟須美神は千手観音を本地(本体)とするとされ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになりました。人々は生きながら浄土に生まれ変わることを目指して熊野を詣でたのです。

狩猟民の神

 熊野信仰のもともとの担い手が狩猟民でした。
 『長寛勘文』に記載された「熊野権現垂迹縁起」(現存する文献の上では熊野縁起最古のもの)で、熊野権現の最初の発見者は猟師とされます。それは熊野信仰のもともとの担い手が狩猟民であったということです。

 狩猟民の文化では動物に敬意を払います。動物を狩るときには心になんらやましさを覚えることのない武器をもって戦わなければならない。必要以上に殺さない。殺した動物の体に敬意を払う。動物に対して礼を欠く行いをすれば、次の獲物を与えてもらえなくなると狩猟民は考えました。狩猟を持続可能なものにするために動物への敬意を失ってはならなかったのです。

自然崇拝

 熊野信仰の基層には自然崇拝があります。熊野では現在でも滝や岩や川や島をお祀りしている神社がわずかながらもあり、社殿のない神社もわずかながらも残されています。自然崇拝の名残が今でも熊野では見ることができます。

たくさんの神様たち

 熊野三山に祀られる神様たちをまとめて熊野十二所権現といいます。熊野三山で祀られる12柱の神々。
 それは12柱ではありますが、そのうちの1柱は「一万宮十万宮」という神様で、それは一万眷属十万金剛童子。合わせて11万の神々を「一万宮十万宮」とまとめてお祀りしています。
 また「勧請十五所」という神様もあり、よくわかりませんが、たぶん15柱の神々をまとめてお祭りしているのでしょう。だとすると、一万宮十万宮の11万の神々と勧請十五所の15の神々をその数のまま数えれば熊野十二所権現は11万25柱の神々であるということになります。

 それらの多くの神々をお祀りする熊野の信仰の形は、多様な生物が生息する熊野の豊かな自然によって育まれたものかもしれません。熊野十二所権現11万25柱の神々からは生物多様性と文化多様性の結びつきがイメージされます。

女性のリーダー

 神武の軍勢に誅されたニシキトベは女性酋長だとされます。ニシキトベが本当に女性であったのかどうかは確かめる術はありませんが、女性のリーダーがいたと語られることは熊野の豊かさの一部であると思います。中世には丹鶴姫という女傑もいました。

女性によって支えられた聖地

 熊野は山岳宗教の中心地のひとつでありながら、女性の参詣を禁じませんでした。禁じないどころか積極的に受け入れていました。熊野ほどに女性の参詣を歓迎した社寺は他にありません。

 また戦国時代の頃から江戸時代初期にかけて、荘園を失って経済基盤が揺らいだ熊野三山のために諸国をめぐって運営資金を集めたのは熊野比丘尼と呼ばれる女性宗教者たちでした。

社会的弱者の心の支え

 障害者や病人も熊野を詣でました。彼らは治癒の奇跡を祈り、あるいは死後の極楽往生を祈ったことでしょう。当時、盲人やハンセン病者などは前世での悪行の報いでそうなったのだとされて差別を受けていましたが、そのような人たちも熊野は受け入れました。熊野権現の御利益はあらゆる人々に無差別に施されるものでした。熊野は社会的弱者の心の支えともなっていたのです。

「み熊野」について

「み」は神のものを表わす接頭語で、「み」が冠された地名は古代では「み熊野」と「み吉野」と「み越路〔みこしじ:越の国(越前・越中・越後の三国)〕」。神聖な土地に「み」が冠されました。「み」にはその土地に対する畏敬や憧憬の念が込められています。

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