那智の滝への崇拝からおこった霊場
熊野那智大社は那智の滝を神とする自然崇拝からおこった社です。
社伝には、神武天皇が熊野灘から那智の海岸「にしきうら」に上陸されたとき、那智の山に光が輝くのを見て、この大滝をさぐり当てられ、神としておまつりになった、とあるそうですが、神武東征以前から熊野の原住民が神としてまつっていたと考えるのが自然でしょう。
熊野那智大社の社殿は現在、那智の滝から離れた高台にありますが、かつては大滝の近くあったらしく(「那智経塚」の近くにかつての社殿があったと考えられています)、仁徳天皇5年(317年)に現在地に遷されたと伝えられます。
観音霊場として栄えた那智
土産物店が軒を連ねる参道の石段を10分ほど登っていくと、標高約500mにある那智大社および那智山青岸渡寺の境内にたどりつきます。途中、参道はふたつに分かれますが、どちらの道を行っても結構です。
左の大鳥居をくぐると熊野那智大社、右の道を行くと仁王門を経て青岸渡寺にたどりつきますが、熊野那智大社と青岸渡寺は隣接して建っていますので、どちらの道を行かれてもかまいません。
熊野那智大社は古くは「那智山権現」「那智権現」「那智十二所権現」などと呼ばれていました。権現とは、仏が仮に神となって現われた、その神のこと。
熊野は神仏習合により栄えた霊場です。
那智の主神・牟須美神(ふすみのかみ)の本地仏は千手観音であり、那智は観音浄土「補陀落(ふだらく)浄土」とみなされ、那智の浜に面していた補陀洛山寺が拠点となって、補陀落渡海という一種の入水往生がしばしば実践されました。
しかしながら明治維新が成り、明治政府が発した神仏分離令は、もともと一体であった神仏習合の霊地に、神か仏かのどちらか片方を選択するように命じました。本宮も新宮も神を選び、仏を捨て、寺院は取り壊されました。
那智でも、神を選び、廃仏毀釈を行いました。いくつもの仏寺や坊舎が取り壊され、那智権現は仏教・修験道を排し、明治4年(1871年、明治6年とも)に「那智神社」と神社名を変えました。
那智山青岸渡寺として残されている寺は古くは如意輪堂と呼ばれ、如意輪堂は西国三十三所霊場の第一番札所でもあり、さすがに取り壊しはされませんでしたが、仏像仏具類は補陀洛山寺などに移され、空堂とされました。
しかし、その後、山内の人々の願により明治7年(1874年)、神社側から独立。「青岸渡寺」と名付け、天台宗の一寺として再興されました。
そのおかげで那智は現在もなお神社と寺院が隣接して建っており、熊野三山中もっとも神仏習合時代の名残りを残しています。
那智神社はその後、熊野夫須美神社に改称。大正期にさらに熊野那智神社に改称。昭和38年(1963年)に現在の熊野那智大社となりました。
那智の御祭神
熊野那智大社は、正面に五棟五殿、左に一棟八殿、併せて十三殿が「┏ 形」に配置されています。
正面向かって右手が第一殿で、左端が第五殿です。左側にあるのが八社相殿の第六殿。
地形的な制約のため本宮大社や速玉大社のように横一列には配置されず、また第一殿には大滝の神がまつられ、第二殿以下に熊野十二所権現がまつられています。
熊野那智大社の御祭神は以下のとおり。
社殿名 | 祭神 | 本地仏 | |||
第一殿 | 滝宮 | 大己貴命 | 千手観音 | 飛瀧権現 | |
第二殿 | 証誠殿 | 家津御子大神 国常立尊 |
阿弥陀如来 | 三所権現 | 熊野十二所権現 |
第三殿 | 中御前 | 御子速玉大神 伊弉諾尊 |
薬師如来 | ||
第四殿 | 西御前 | 熊野夫須美大神 伊弉冉尊 |
千手観音 | ||
第五殿 | 若宮 | 天照大神 | 十一面観音 | 五所王子 | |
第六殿 八神殿 |
禅児宮 | 忍穂耳尊 | 地蔵菩薩 | ||
聖宮 | 瓊々杵尊 | 龍樹菩薩 | |||
児宮 | 彦火火出見尊 | 如意輪観音 | |||
子守宮 | うか草葺不合尊 | 聖観音 | |||
一万宮 十万宮 |
国狭槌尊 とよくむぬのみこと |
文殊菩薩 普賢菩薩 |
四所明神 | ||
米持金剛 | 泥土煮尊 | 釈迦如来 | |||
飛行夜叉 | 大戸道尊 | 不動明王 | |||
勧請十五所 | 面足尊 | 釈迦如来 |
那智は、熊野十二所権現に、大滝の神、飛瀧権現を合わせてまつるため、「熊野十三所権現」とも呼ばれます。)
また、熊野那智大社の主神は、正面向かって左から二番目の第四殿にまつられている熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)で、結宮(むすびのみや)とも呼ばれ、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と同体とされます。
毎年7月14日に行われる例大祭「扇祭(那智の火祭り)」では、熊野十二所権現が1年に1度、現在鎮座する場所からもともと鎮座していた那智の滝へ里帰りする神事が執り行なわれます。
平重盛が造営奉行を
拝殿の近くには樹齢約850年と推定される楠の大木が枝を広げています。幹には人がなかに入れるほどの洞ができています。この大楠は平重盛が造営奉行をした折、手植えしたものと伝えられます。
平重盛が造営奉行となって社殿を整え、やがて織田信長の焼き討ちにあい、その後を豊臣秀吉が再興。江戸時代に入って亨保・嘉永の大改修が行われました。
(てつ)
2002.4.28 UP
2002.4.30 更新
2002.6.16 更新
2002.8.30 更新
2013.7.21 更新
2021.5.12 更新
参考文献
- 加藤隆久 編『熊野三山信仰事典』戎光祥出版
- 梅原猛『日本の原郷 熊野』とんぼの本 新潮社
- 中沢新一 責任編集・解題『南方熊楠コレクション〈第5巻〉森の思想』河出文庫
熊野那智大社へ
アクセス:JR紀伊勝浦駅から熊野交通バス神社お寺前駐車場行きで約30分、終点下車、徒歩10分。滝前バス停、神社お寺前バス停で降りてもよいです。
熊野古道大門坂を歩きたい方は大門坂駐車場前バス停で下車、徒歩約1時間。
駐車場:有料駐車場あり(場所により無料)