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平忠度生誕の地(たいらのただのりせいたんのち)

和歌山県新宮市熊野川町宮井147-2 宮井村:紀伊続風土記(現代語訳)

平清盛の異母弟、平忠度の生誕の地

平忠度生誕の地

 和歌山県新宮市熊野川町宮井の音川という地が薩摩守 平忠度(さつまのかみ たいらのただのり:?~1184)の生誕の地だと伝えられています。

 平忠度は、平忠盛の六男。清盛の異母弟。
 「熊野育ちの大力の早業」と称され、武芸に優れ、また歌道にも優れた武将でした。

 国道168号沿いに「薩摩守 平忠度 生誕の地」の看板があり、そのすぐ近く、少し石段を上がった所に石碑が建てられています。

平忠度生誕の地

 石碑が2つ。

平忠度生誕の地

 横の石碑に刻まれた解説文。

平忠度誕生の地

薩摩守平忠度は、文武両道に優れた武将であったと言われるが、平家物語から忠度に関連する記述を抜粋してみると「」の章に、浜の女房(女官)の歌として
「雲井よりただもりきたる月なれば おぼろげにては いはじとそ思う」とある。

「忠度都落」の章によると、平氏一門と共に都落した彼は淀の川尻から京に引き返し、歌道の師、藤原俊成の門を叩いて遺詠を渡した後京を去っていった。
その歌「さゞ浪や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」は、後に千載集に「故郷花」という題で詠み人知らずとして入れられている。

薩摩守最後」の章によると、薩摩守は「熊野そだち、早業の大力にておはしければ」とあるが、寿永3年2月7日一の谷の合戦に利なく敗走する平氏軍の中で忠度は武蔵国の住人岡部六弥太と組み合って六弥太を組み伏せ、その首を掻こうとした時、背後に殺到した六弥太の郎党が、忠度の右腕を切り落とした。もはやこれまでと「そこのき候らへ、十念唱へん」と組み敷いていた六弥太を投げ飛ばし、どっかとすわり十念を唱へ従容として最後をとげたが、彼の箙に次の一首が結ばれていたという。
「行き暮れて木のしたかげを宿とせば 花やこよいのあるじならまし」

相須の甲明神社に若宮として平忠度をお祀りしている。

平成十年三月   熊野川町教育委員会  

平忠度生誕の地

 正面の石碑の裏面に刻まれた解説文。

ここ音川の地は薩摩守平忠度生誕の地であると伝えられる。父は鳥羽上皇に仕え、上皇の熊野御幸のお供をし、又上皇が建立された三十三間堂の建設にも関わったという平忠盛は鳥羽上皇の御所に仕えていた熊野別当湛快の娘 浜の女房(女官)といわれ、忠盛と結ばれたのち熊野に帰り、音川の橋爪氏の館で忠度を生んだと伝えられるのがこの場所である。忠度は十八才迄熊野で過ごし、熊野参詣に来た兄の清盛に伴われ京都に上ったと伝えられる。

平成十年三月   熊野川町建立  

 京都には2つの三十三間堂がありました。平忠盛が鳥羽院に寄進したもの(得長寿院)と、平清盛が後白河院に寄進したもの(蓮華王院)。得長寿院は、壇ノ浦に平家が滅んだ約4ヶ月後に地震で崩壊。現在残る三十三間堂は蓮華王院の方です。

 『紀伊続風土記』の宮井村の条には以下のようにあります(口語訳てつ)。  

薩摩守忠度誕生所
小名音河にて生まれ、この地にて成長したといい伝える。音河に昔、橋爪という旧家があった。その家で誕生したという(本宮社家竹ノ坊に伝わる古い連判の人名に河合兵衛入道宗円という人がいた。土地の人はこれが橋爪氏のことであろうという。ある説では新宮の辺に忠度の旧跡があるという)。

忠度朝臣、父は忠盛卿、母は詳らかでない。この地に縁があることは『平家物語』薩摩守最期の条に「熊野育ち、大力の早業にていらっしゃったので」云々と見える。『東鏡』に別当湛快の娘を娶ったことが見えている(その文は詳らかに新宮部の別当の条に見えている)。

これらによると、父忠盛卿が熊野別当の娘などに通って忠度を産み、母家にて養育させて、成長の後、忠度は湛快の娘を妻としてこの地にあったが、兄清盛が朝政を執り、一門が盛んになる時になって都に移り住んだのであろう。年齢は別に考えられることがない。

 平忠度の石碑は熊野川行政局の傍らにも建てられています。

平忠度の歌:熊野の歌

平忠度の最期:熊野の説話

忠度の母と妻:熊野の説話

甲明神社:熊野の観光名所

平忠度ファンサイト

(てつ)

2012.8.29 UP
2021.3.8 更新

参考文献

平忠度生誕の地へ

アクセス:JR新宮駅から車で約30分
駐車場:駐車スペースありり