■ 熊野の説話

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◆ 滝尻王子、藤原秀衡の子捨て


滝尻王子 和歌山県西牟婁郡中辺路町栗栖川に五体王子の一つ、滝尻王子(たきじりおうじ。右の写真)があります。
 この滝尻から奥は御山、熊野の霊域だと考えられていました。
 王子社の裏山の急な坂道を登っていくと、「胎内くぐり」と呼ばれる穴の開いた岩があり、その上方に「乳岩」と呼ばれる岩屋があります。
 乳岩に関しては次のような話が伝わっています。

 奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が、妻が子種を授かったお礼に熊野参詣した。
 秀衡はその旅に妻を伴う。
 本宮に参る途中、滝尻で、妻はにわかに産気づき、出産。

 赤子を連れては熊野詣はできないと、その夜、夢枕に立った熊野権現のお告げにより、滝尻の裏山にある乳岩という岩屋に赤子を残して旅を続けた。
 子は、山の狼に守られ、岩から滴り落ちる乳を飲んで、両親が帰ってくるまで無事に育っていた。

 この子が後の泉三朗忠衡(いずみさぶろうただひら)である。
 この熊野権現の霊験に感動した秀衡は、滝尻の地に七堂伽藍を建立し、諸経や武具を堂中に納めたという。

 藤原秀衡は奥州平泉の鎮守府将軍。無尽蔵ともいうべき財力をもち、17万騎といわれる騎馬軍団を従え、奥羽(今の東北地方)を治めた豪族。源頼朝にも恐れられた北の王です。
 滝尻の七堂伽藍は秀衡堂ともいい、秀衡はその伽藍の維持費にと黄金を壷に入れ近くに埋めたそうです。この七堂伽藍は、秀吉の紀州攻めで破壊されてしまいました。

 藤原秀衡の三男が泉三郎忠衡。

 1185年、平氏を壇ノ浦に滅ぼした源義経でしたが、このときから頼朝と義経の不和が表面化。頼朝に追われた義経は、秀衡を頼って奥州平泉に逃げ込みました(義経は16から22歳までの間、秀衡のもとで暮らしていました)。
 それが頼朝に知られるも、秀衡はしらを切りつづけ、義経を守ります。が、秀衡は1187年に病死。「義経を大将軍に押し立てて、国務にあたり、平泉を守れ」という遺言を息子たちに遺します。

 秀衡の跡を継いだ次男の泰衡(やすひら)のもとには、頼朝を通じて後白河法皇と後鳥羽天皇から「義経を追討せよ、さもなくば朝廷軍を向け征伐する」という脅迫的な院宣と宣旨が送りつけられました。
 義経を守るか奥羽の平和を守るかで悩みながらも、しばらくは父の遺言に従っていた泰衡でしたが、1189年、とうとう頼朝と朝廷の圧力に屈し、義経を討つことで奥羽の平和を守ることを決意。義経を奇襲。義経は自刃します。時に義経、31歳。

 泰衡は義経の首を鎌倉に送りましたが、もともと奥羽制圧を目論んでいた頼朝は泰衡討伐を開始。義経という軍事の天才を失った奥州藤原氏は、義経の死後半年も経たないうちに滅びてしまいます。

 そんな奥州藤原氏滅亡の歴史のなか、秀衡の息子たちのなかで、ただひとり気を吐いた感のあるのが、三男の忠衡。義経を守ることが奥羽の平和を守ることだと、他の兄弟たちと対立。ただひとり父の遺言どおりに義経と組んで、頼朝の奥羽制圧の野望を打ち砕こうと考えていたのが、三男の忠衡なのでした。そのため、義経の死後、泰衡に攻め殺されてしまいます。時に忠衡23歳のころ。

 なぜ、滝尻の裏山の乳岩に置いていかれた赤子が、長男の国衡や嫡男の泰衡などではなく、三男の忠衡だったのか。おもしろいですね〜。

 熊野詣にまつわるお話でもっとも有名であろう物語が、安珍清姫の物語。その安珍は奥州白河の僧(鞍馬寺の僧という話もある)だという話。奥州から熊野へ。そんな遠いところからも人々を引き付ける不思議な力が熊野にはあったのでしょうね。

 それにしても、子種を授かったお礼に熊野詣しているのに、生まれてきた赤子を置き去りにするなんて、なんて無茶なことをするのでしょうか。だいたい妊娠中の妻を連れて熊野詣をすること自体が無茶な話だと思いますが、しかしながら、この伝説には意味があって、出産に伴うケガレ(産穢、白不浄)を熊野は意に介さないのだということを伝えているのです。

 平安時代中期に編纂された法典『延喜式』で国家的に規定された三不浄(死穢・産穢・血穢)。この3つの不浄を熊野は全く意に介さないということを伝えるためのお話のひとつが、この藤原秀衡の子捨て伝説です。

 ところで、狼が人の子を育てる話で有名なのが、ローマの建国神話。

 ローマの建国者ロムルスは、レムスと双子の兄弟として生まれた。
 彼らの母レア=シルヴィアは処女でなければならないウェスタ女神の女神官であったが、戦いの神マルスに犯され、ロムルスとレムスを生むことになる。
 そのことがばれると、死刑に処せられるため、レア=シルヴィアは双子を籠に入れてティベル川の岸に捨てた。
 ところが、大雨で川が増水。籠は流され、後にローマとなる場所に流れ着いた。
 そこへ子供を生んだ雌狼がやって来て、二人に乳を与えて養った。さらに啄木鳥もやって来て二人を育てるようになる。

 そこへ羊飼いがやって来て、結局、二人は人に育てられ、のちのち、ロムルスはローマの初代の王となるのです。

 狼に育てられただけではなく、狼が父であったり、母であったりする神話もあります。

 モンゴル人の祖先バタチカンの父は青い狼であり、母は美しい鹿であった。バタチカンから十代目がドブン=メルゲンで、その妻アラン=ゴアが生んだ子供の末っ子ボドンチャルが、チンギス=ハンの祖先である。

 乳岩からさらに熊野古道を本宮のほうに向かって歩いていくと(7時間ほど。普通は途中の近露という所で一泊します)、野中(のなか)という所に秀衡桜があります。

 滝尻で生み落とした子を乳岩に残したまま、旅を続けた秀衡夫妻。
 野中まで来て、道ばたの桜の枝を手折り、
 「もしわが子が死ぬならば、この桜も枯れるだろう。熊野権現の御加護あって、もし生きているのならば、この桜も枯れないだろう」
 と願掛けをして、地面に突き立てたところ、見事に根付き、子も無事に育っていたという。

 桜の枝ではなく、桜の杖を突き立てたという話もあります。

 (秀衡桜と呼ばれる木は熊野にもう1ヶ所、熊野那智大社の社務所前にあって、これは藤原秀衡が参詣の折に奉納したと伝えられます)

(てつ)

2012.4.21 更新
2013.10.23 更新

 ◆ 参考文献

中村浩・神坂次郎・松原右樹『日本の伝説39 紀州の伝説』角川書店
西口勇『くまの九十九王子をゆく 第二部』燃焼社
大林太良・伊藤清司・吉田敦彦・松村一男 編『世界神話事典』角川書店
くまの文庫2『熊野中辺路 伝説(上)』熊野中辺路刊行会

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■五体王子
 熊野九十九王子中、とくに格式が高いとして崇敬されてきた王子をという。

■熊野九十九王子
 熊野詣の公式ルートである紀路・中辺路の道筋に集中的にあ設けられた神祠を王子と呼ぶ。
 道中最初の王子「窪津王子」は、紀伊路の出発点、淀川河口付近、大阪市天満橋の辺りにあり、そこから片道300kmに及ぶ紀路・中辺路の道中、熊野三山に至るまでおよそ100の王子が祀られており、それらの王子をまとめて「熊野九十九王子」と呼ぶ。
  詳しくは、「
熊野古道とは何?などをご参照ください。

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