■ 熊野古道 熊野九十九王子

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◆ 継桜王子(つぎざくらおうじ)  和歌山県田辺市中辺路町野中  野中村:紀伊続風土記(現代語訳)


樹齢800年等、野中の一方杉

継桜王子・野中の一方杉 継桜王子は、比曽原(ひそはら)王子中ノ河王子の間にある王子近露王子からは徒歩1時間30分ほど。

 すぐ隣に茅葺き屋根の「とがの木茶屋」があります。「とがの木茶屋」は、予約制の、営業時間は予約時間のみという民宿・食事処です。

 社殿に向かう石段を挟んで杉の巨木が立ち並んでいます。推定樹齢は800年等。大きいです。熊野古道「中辺路」沿いではこれほど大きな杉は他に見ることはできません。

 これらの巨杉群は野中の一方杉(のなかのいっぽうすぎ)と呼ばれます。「一方杉」と呼ばれる由縁は、杉のすべてが熊野那智大社のある方向(南)にだけ枝を伸ばしていることです。日射しや地形の関係で、一方向にだけ枝を伸ばしているということなのでしょうけれど、那智を遥拝しているかのように見ることもできます。

 合祀前には40本ほどあった野中の一方杉ですが、現在は8本を残すのみ。県の文化財に指定されています。

継桜王子 王子社は石段を登りきった所に祀られています。
 この王子は若一王子権現ともいわれ、野中(のなか)の氏神になっています。明治42年に近野神社に合祀されましたが、 社殿はそのまま残されて祀りつづけられ、戦後になって、ご神体を戻し、復社を果たしました。

 ところで、王子は普通、土地の名をもって呼ばれます。王子はその土地の人たちにとっては氏神であり、その土地の産土神であるわけです。
 しかし、この中辺路町野中にある王子は「野中王子」とは呼ばれずにその示した奇跡をもって継桜王子と呼ばれました。
 その奇跡とは、

 奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が、妻が身籠ったお礼に熊野参詣した。
 秀衡はその旅に妻を伴う。
 本宮に参る途中、滝尻で、妻はにわかに産気づき、出産した。
 赤子を連れては熊野詣はできないと、その夜、夢枕に立った熊野権現のお告げにより、滝尻の裏山にある乳岩という岩屋に赤子を残して旅を続けた。
 野中まで来て、赤子のことが気になり、秀衡はこれまでついて来た桜の木の杖を地面に突きさし、「置いて来た赤子が死ぬのならばこの桜も枯れよう。熊野権現の御加護ありてもし命あるのならば、桜も枯れないだろう」と祈り、また旅を続けた。
 帰り道、野中まで来ると、なんと桜の杖は見事に根づき、花を咲かせていた。
 秀衡夫妻は喜び、滝尻に向かうと、赤子は乳岩で、岩から滴り落ちる乳を飲み、山の狼に守られて無事に育っていた。
 この赤子が後の泉三朗忠衡(いずみさぶろうただひら)で、熊野権現の霊験に感動した秀衡は、滝尻の地に七堂伽藍を建立し、諸経や武具を堂中に納めた。
 秀衡が祈願し根づかせた桜は「秀衡桜」と呼ばれる。

 というようなものです。この話には少し違う話もあって、

 赤子を乳岩に置いて来た秀衡は、野中まで来て、赤子のことが気になり、そこにあった桜の枝を手折り、別の木(ヒノキ)に挿し、「置いて来た赤子が死ぬのならばこの桜も枯れよう。熊野権現の御加護ありてもし命あるのならば、桜も枯れないだろう」と祈り、また旅を続けた。帰り道、野中まで来ると、桜の枝は見事につき、花を咲かせていた。

 というようなもので、杖が根づいたという話よりは現実味がありますが、桜の継ぎ木も、じつはほとんど不可能です。

 しかし「継桜」という桜があったことは、平安時代の貴族、藤原宗忠(むねただ)の日記『中右記(ちゅうゆうき)』に「道の左辺に続桜樹有り」とあり、「本はヒノキで、まことに珍しいものだ」とも記されています。この日記によると、ここに王子はなく、継桜王子社が設けられるのはもう少し後のことのようです。

 したがって、まず「継ぎ木の桜」という奇跡があって、王子社が設けられるときに、その奇跡をもって継桜王子という名が付けられたのでしょう。また、「継桜」そのものは藤原秀衡と結びついて伝説を生み、「秀衡桜」とも呼ばれるようになったのでしょう。

 桜は継ぎ木がほとんどできず、ヒノキも台木にならないことから、「継桜」はおそらくはヒノキの老樹の空洞となった所に桜の苗が根を下ろしたというのが実態であったのではないかと思われます。「継桜」は王子社の社前にありましたが、古木して枯れ、初代紀州藩主徳川頼宣の命により山桜を代わりに植えたそうです。その2代めの桜も明治の水害で倒れ、その後、100mほど東の古道端に植えられました。これが現在の秀衡桜です。

 王子の前の崖下には、日本名水百選のひとつ「野中の清水」があります。継桜王子からは歩いてすぐ。ぐるっと回って車で行くこともできます。現在も地元の人たちの生活用水として使われる湧水です。

 この文章の最初のほうに、この王子が近野神社に合祀されたことを書きましたが、そのことについて紀州が生んだ世界的博物学者である南方熊楠は、当時、東京帝国大学農学部教授であった白井光太郎に宛てた書簡(『神社合祀に関する意見』)のなかで次のように記しています。

 合祀濫用のもっともはなはだしき一例は紀州西牟婁郡近野村で、この村には史書に明記せる古帝皇奉幣の古社六つあり(近露王子、野中王子、比曽原王子中川王子、湯川王子、小広王子)。一村に至尊、ことにわが朝の英主と聞こえたる後鳥羽院の御史蹟六つまで存するは、恐悦に堪えざるべきはずなるに、二、三の村民、村吏ら、神林を伐りて営利せんがため、不都合にも平田内相すでに地方官を戒飭(かいちょく)し、五千円を積まずとも維持確実ならば合祀に及ばずと令したるはるか後に、いずれも維持困難なりと詐(いつわ)り、樹木も地価も皆無なる禿山頂へ、その地に何の由緒なき無格社金毘羅社というを突然造立し、村中の神社大小十二ことごとくこれに合祀し、合祀の日、神職、衆人と神体を玩弄してその評価をなすこと古道具に異ならず。この神職はもと負荷人足(にもちにんそく)の成上りで、一昨冬妻と口論し、妻首縊(くく)り死せる者なり。かくて神林伐採の許可を得たるが、その春日社趾には目通り一丈八尺以上の周囲ある古老杉三本あり。

 また野中王子社趾には、いわゆる一方杉とて、大老杉、目通り周囲一丈三尺以上のもの八本あり。そのうち両社共に周囲二丈五尺の杉各一本は、白井博士の説に、実に本邦無類の巨樹とのことなり。またこれら大木の周囲にはコバンモチというこの国希有の珍木の大樹あり。托生蘭(たくせいらん)、石松類(なんかくらんるい)等に奇物多し。年代や大いさよりいうも、珍種の分布上より見るも、本邦の誇りとすべきところなる上、古帝皇将相が熊野詣りごとに歎賞され、旧藩主も一代に一度は必ずその下を過(よぎ)りて神徳を老樹の高きに比(よそ)え仰がれたるなり。すべてかかる老大樹の保存には周囲の状態をいささかも変ぜざるを要することなれば、いかにもして同林の保存を計らんと、熊楠ら必死になりて抗議し、史蹟保存会の白井、戸川〔残花〕二氏また、再度まで県知事に告げ訴うるところあり。知事はその意を諒とし、同林伐採を止めんとせしも、属僚輩かくては県庁の威厳を損ずべしとて、その一部分ことに一方杉に近き樹林を伐らしめたり。過ちを改めざるを過ちと言うとあるに、入らぬところに意地を立て、熊楠はともあれ他の諸碩学の学問上の希望を容れられざりしは遺憾なり。かくのごとく合祀励行のために人民中すでに姦徒輩出し、手付金を取りかわし、神林を伐りあるき、さしも木の国と呼ばれし紀伊の国に樹木著しく少なくなりゆき、濫伐のあまり、大水風害年々聞いて常事となすに至り、人民多くは淳樸の風を失い、少数人の懐が肥ゆるほど村落は日に凋落し行くこそ無残なれ。

(中沢新一 責任編集・解題『南方熊楠コレクションV 森の思想』河出文庫、496〜498頁)

 同じ書簡の別の箇所には、

 前述一方杉ある近野村のごとき、去年秋、合祀先の禿山頂の社へ新産婦が嬰児とその姉なる小児を伴い詣るに、往復三里の山路を歩みがたく中途で三人の親子途方に暮れ、ああ誰かわが産土神(うぶすながみ)をかかる遠方へ拉(と)り去れるぞと嘆くを見かねて、一里半ばかりその女児を負い送り届けやりし人ありと聞く。

(同書、499頁)

 とも記されています(『神社合祀に関する意見』の口語訳はこちら)。
 明治の神仏分離令と神社合祀令は熊野に深い傷跡を残しました。
 とくに明治39年に施行された1町村1社を原則とする神社合祀令は熊野に壊滅的なまでのダメージを与えました。

 和歌山県では神社合祀令施行前に3721社あった神社が、施行後の明治44年11月にはおよそ6分の1の600社余りにまで減少し、三重県では施行前に5547社あった神社が明治44年6月にはやはりおよそ6分の1の942社にまで減少しています。
 全国では施行前に19万3千社あった神社が明治45年には11万社余りに減少した程度ですから、いかに熊野で神社合祀の嵐が吹き荒れたかが推察できます。

 村の小さな神社が廃止されただけでなく、歴代の上皇が熊野御幸の途上に参詣したという歴史のある王子社までもが合祀され、廃社となりました。
 五体王子のひとつとして格別の尊崇を受けた稲葉根王子でさえ合祀されました。
 本宮の入り口とされ、五体王子のひとつとして格別の尊崇を受けた発心門王子でさえ合祀されました。
 小さな神社や王子社のほとんどが合祀され、神社林は伐採されました。社殿などはいくらでも建て替えがききますが、神社林は一度破壊されたらもうお仕舞いです。

 南方熊楠は神社合祀に反対し、命がけで戦いました。しかし、熊楠の死に物狂いの奮闘も熊野全域に及ぶ神社合祀の流れには押しつぶされてしまいます。
 南方熊楠の説得により伐採を免れた神社林も、この野中の一方杉など、いくつかあることにはありますが、ほとんどの神社は廃されて神社林を伐採され、姿を消してしまいました。

 ◆ 参考文献

くまの文庫4『熊野中辺路 古道と王子社』熊野中辺路刊行会
中沢新一 責任編集・解題『南方熊楠コレクション〈第5巻〉森の思想』河出文庫
  青空文庫に『神社合祀に関する意見』の電子テキストがあります。
荒俣宏・環栄賢 編『南方熊楠の図譜』青弓社

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