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継桜王子(つぎざくらおうじ)

和歌山県田辺市中辺路町野中 野中村:紀伊続風土記(現代語訳)

熊野の神様が示した霊験、接木の桜

継桜王子

 継桜王子は、比曽原(ひそはら)王子中ノ河王子の間にある王子近露王子からは徒歩1時間30分ほど。

 社殿に向かう石段を挟んで杉の巨木が立ち並んでいます。推定樹齢は800年等。大きいです。熊野古道「中辺路」沿いではこれほど大きな杉は他に見ることはできません。

継桜王子

 これらの巨杉群は野中の一方杉(のなかのいっぽうすぎ)と呼ばれます。「一方杉」と呼ばれる由縁は、杉のすべてが熊野那智大社のある方向(南)にだけ枝を伸ばしていることです。日射しや地形の関係で、一方向にだけ枝を伸ばしているということなのでしょうけれど、那智を遥拝しているかのように見ることもできます。

 杉の巨木は現在8本しかありませんが、神社合祀で廃社となり森が伐採される前には40本ほどありました。

継桜王子

 王子社は石段を登りきった所に祀られています。
 この王子は若一王子権現ともいわれ、野中(のなか)の氏神になっています。明治42年に近野神社に合祀されましたが、 社殿はそのまま残されて祀りつづけられ、戦後になって、ご神体を戻し、復社を果たしました。

 王子の前の崖下には、日本名水百選のひとつ「野中の清水」があります。継桜王子からは歩いてすぐ。ぐるっと回って車で行くこともできます。現在も地元の人たちの生活用水として使われる湧水です。

継桜

 王子は普通、土地の名をもって呼ばれます。王子はその土地の人たちにとっては氏神であり、その土地の産土神であるわけです。
 しかし、この中辺路町野中にある王子は「野中王子」とは呼ばれずに熊野の神様が示した霊験をもって継桜王子と呼ばれました。
 その霊験とは、

 奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が、妻が身籠ったお礼に熊野参詣した。
 秀衡はその旅に妻を伴う。
 本宮に参る途中、滝尻で、妻はにわかに産気づき、出産した。
 赤子を連れては熊野詣はできないと、その夜、夢枕に立った熊野権現のお告げにより、滝尻の裏山にある乳岩という岩屋に赤子を残して旅を続けた。
 野中まで来て、赤子のことが気になり、秀衡はこれまでついて来た桜の木の杖を地面に突きさし、「置いて来た赤子が死ぬのならばこの桜も枯れよう。熊野権現の御加護ありてもし命あるのならば、桜も枯れないだろう」と祈り、また旅を続けた。
 帰り道、野中まで来ると、なんと桜の杖は見事に根づき、花を咲かせていた。
 秀衡夫妻は喜び、滝尻に向かうと、赤子は乳岩で、岩から滴り落ちる乳を飲み、山の狼に守られて無事に育っていた。
 この赤子が後の泉三朗忠衡(いずみさぶろうただひら)で、熊野権現の霊験に感動した秀衡は、滝尻の地に七堂伽藍を建立し、諸経や武具を堂中に納めた。
 秀衡が祈願し根づかせた桜は「秀衡桜」と呼ばれる。

 というようなものです。この話には少し違う話もあって、

 赤子を乳岩に置いて来た秀衡は、野中まで来て、赤子のことが気になり、そこにあった桜の枝を手折り、別の木(ヒノキ)に挿し、「置いて来た赤子が死ぬのならばこの桜も枯れよう。熊野権現の御加護ありてもし命あるのならば、桜も枯れないだろう」と祈り、また旅を続けた。帰り道、野中まで来ると、桜の枝は見事につき、花を咲かせていた。

 というようなもので、杖が根づいたという話よりは現実味がありますが、桜の継ぎ木も、じつはほとんど不可能です。

 しかし「継桜」という桜があったことは、平安時代の貴族、藤原宗忠(むねただ)の日記『中右記(ちゅうゆうき)』に「道の左辺に続桜樹有り」とあり、「本はヒノキで、まことに珍しいものだ」とも記されています。この日記によると、ここに王子はなく、継桜王子社が設けられるのはもう少し後のことのようです。

 したがって、まず「継ぎ木の桜」という霊験があって、王子社が設けられるときに、その霊験をもって継桜王子という名が付けられたのでしょう。また、「継桜」そのものは藤原秀衡と結びついて伝説を生み、「秀衡桜」とも呼ばれるようになったのでしょう。

 桜は継ぎ木がほとんどできず、ヒノキも台木にならないことから、「継桜」はおそらくはヒノキの老樹の空洞となった所に桜の苗が根を下ろしたというのが実態であったのではないかと思われます。「継桜」は王子社の社前にありましたが、古木して枯れ、初代紀州藩主徳川頼宣の命により山桜を代わりに植えたそうです。その2代めの桜も明治の水害で倒れ、その後、100mほど東の古道端に植えられました。今の秀衡桜は5代目。

神社合祀

 明治の神仏分離令と神社合祀令は熊野に深い傷跡を残しました。とくに明治39年に施行された1町村1社を原則とする神社合祀令は熊野に壊滅的なまでのダメージを与えました。

 和歌山県では神社合祀令施行前に3721社あった神社が、施行後の明治44年11月にはおよそ6分の1の600社余りにまで減少し、三重県では施行前に5547社あった神社が明治44年6月にはやはりおよそ6分の1の942社にまで減少しています。
 全国では施行前に19万3千社あった神社が明治45年には11万社余りに減少した程度ですから、いかに熊野で神社合祀の嵐が吹き荒れたかが推察できます。

 村の小さな神社が廃止されただけでなく、歴代の上皇が熊野御幸の途上に参詣したという歴史のある王子社までもが合祀され、廃社となりました。
 五体王子のひとつとして格別の尊崇を受けた稲葉根王子でさえ合祀されました。
 本宮の入り口とされ、五体王子のひとつとして格別の尊崇を受けた発心門王子でさえ合祀されました。
 小さな神社や王子社のほとんどが合祀され、神社林は伐採されました。社殿などは建て替えができますが、神社林は一度破壊されたらもうお終いです。

 南方熊楠は神社合祀反対を訴え、戦いました。しかし、熊楠の奮闘も熊野全域に及ぶ神社合祀の流れには押しつぶされてしまいます。
 南方熊楠の説得により伐採を免れた神社林もいくつかあることにはありますが、ほとんどの神社は廃されて神社林を伐採され、姿を消してしまいました。

神社合祀反対運動

継桜王子

 継桜王子は明治42年に合祀されて廃社となりましたが、森だけは守ろうと南方熊楠は奮闘しました。

 熊楠は継桜王子のことを、その土地の名をもって野中王子とも呼びます。野中村は、明治22年(1889)に町村制の施行に伴い、近露村、道湯川村と合併して近野村となります。近野村には熊野古道「中辺路」が通り、六社もの王子社がありましたが、新しく作った金刀比羅神社という小社にすべて合祀されて、すべて廃社となりました。

合祀濫用のもっともはなはだしき一例は紀州西牟婁郡近野村で、この村には史書に明記せる古帝皇奉幣の古社六つあり(近露王子、野中王子、比曽原王子、中川王子、湯川王子、小広王子)。一村に至尊、ことにわが朝の英主と聞こえたる後鳥羽院の御史蹟六つまで存するは、恐悦に堪えざるべきはずなるに、二、三の村民、村吏ら、神林を伐りて営利せんがため、不都合にも平田内相すでに地方官を戒飭し、五千円を積まずとも維持確実ならば合祀に及ばずと令したるはるか後に、いずれも維持困難なりと詐り、樹木も地価も皆無なる禿山頂へ、その地に何の由緒なき無格社金毘羅社というを突然造立し、村中の神社大小十二ことごとくこれに合祀し、合祀の日、神職、衆人と神体を玩弄してその評価をなすこと古道具に異ならず。……かくて神林伐採の許可を得たるが、その春日社趾には目通り一丈八尺以上の周囲ある古老杉三本あり。

(「神社合祀に関する意見(原稿)」白井光太郎宛書簡、明治45年2月9日付『南方熊楠全集』7巻、平凡社)

 近野村では、大坂本王子・近露王子・比曽原王子・野中王子(継桜王子)・中ノ河王子・小広王子・岩神王子・湯川王子と、歴史的に価値のある八社もの王子社が、新たに造られた金刀比羅神社に合祀されて廃社となりました。

 熊楠は『牟婁新報』など地方新聞に寄稿して伐採中止を訴え、識者への書簡で協力を求めました。

野中、近露の王子は、熊野九十九王子中もっとも名高きものなり。野中に一方杉とて名高き大杉あり。また近露の上宮にはさらに大なる老杉あり、下宮にもあり。上宮のみは伐採せられしが、他は小生抗議してのこりあり。……いずれも一間から一丈近き直径のものに候て、聖帝、武将、勇士、名僧が古え熊野詣にその下を通るごとに仰ぎ瞻られたるに候。この木等を伐らんとて、無理に何の木もなき禿山へ新たに社を立て、それへ神体を移したるなり。これらは名蹟として何とか復社させられたきことに御座候。

松村任三宛書簡、明治44年8月29日付『南方熊楠全集』7巻、平凡社)

野長瀬忠男の神社合祀反対意見

 近野村近露に住む野長瀬忠男という青年もまた『牟婁新報』で伐採中止を訴えました。

 合祀破壊の最も多いものは三重県の五千五百四十七社を第一とし、これに次ぐは、愛媛埼玉長野和歌山という順序で、我県は三千九百二十三社を破壊して居る、これはもう致し方が無いのか知らぬが今の場合、神社合祀の可否を討議するよりも、既に合祀した新神社の善後策と旧神社跡の、神木乱伐を禁止する事が、急務であると思う。

 本県のような、交通未だ開けず、多くの山村僻村を抱有して居る地方で、一村に二社や三社くらいの神社があるという事は人民の敬神観念持護上または養成上、大いに利益コソあれ何の弊害も無い。しかるに本県で多くの神社が破壊乱滅の厄運に罹り、却って由緒もゆかりも無い禿山や、または三里も四里もある他村へ合祀された事は我等の実に感服せざる所である、イヤ、日本国民として村落の人民として、実に言うに忍びざる苦痛である。

(野長瀬忠男「神社合祀跡の神木濫伐禁止の急務(上)」『牟婁新報』明治44年10月13日付)

 野長瀬忠男は、大塔宮護良親王に従って南朝の忠臣として活躍した野長瀬一族の末裔。後に「東京車輪製作所」という自動車用車輪製造会社を創業し、現在もある「トピー工業株式会社」の創業者の一人となります。弟が日本画家として知られる野長瀬晩花(のながせ ばんか。本名は弘男)。『ウルトラQ』や『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の監督として知られる野長瀬三摩地(のながせ さまじ)は晩花の子であり、野長瀬忠男にとっては甥に当たります。

 神社合祀反対運動は熊楠が孤軍奮闘したかのような印象があるかもしれませんが、決して熊楠一人で行われたものではありません。今しばらく野長瀬忠男の文章を引用します。

せめて主なる旧神社跡の社地や神木はそのまま保存して村の公園として置き、時には村人が打ち寄って角力取るもよろしい、村芝居をやるのも結構、演説をするもよし、時には大勢寄って飯を炊いて食うのもよろし、要するに村の人民全体あるいは青年の娯楽修養の場所として永久に保存し使用し一方国宝として保護するように勤むれば風致体面の上から見ても誠に奥床しい事である。

(野長瀬忠男「神社合祀跡の神木濫伐禁止の急務(下)」『牟婁新報』明治44年10月15日付)

 野長瀬忠男は自分の村にある神社やその跡地が国宝級の価値のある場所なのだということを確信していました。その確信の正しさは後に熊野古道が世界遺産になることで証明されます。
 また、アメリカでの暮らしを経験していた野長瀬忠男はアメリカの自然保護についても触れています。

史跡や自然物の保護につきて一二外国の例を挙げて見ると非常な勇気無類の金力を振って突進しつつある新進気鋭の米国、悪く言えば飛上り者の成金ともいうべき彼等の国、カリフォルニア州の有名なる景勝地ヨセミテバレーのような所では一本の木一筋の草でさえ決して粗末にせぬ。国庫から金をかけてバレー全体を保護し草や木の世話をして居る。土地の人民も能く注意してそこの動植物を保護して居るのは驚くばかりである。さらに驚くべきはワヨミング、モンタナ、アイダホの三州に跨って居る、エローストーンの国民公園(ナショナルパーク)である。その規模の雄大風景の絶佳なる到底拙い筆では書けぬ。同公園内に田辺湾を十う集めたくらいいの湖水があって有名な温泉が数多ある。同公園全体の大きさは我東西牟婁二郡寄せたよりももっと大きい。文豪ワシントンアーヴィングのいわゆる『自然が技巧を尽した奢侈』をこの一所に集めて居るともいえるこの雄大な景勝地が、米人の手で完全に保護されて居るという事は、我等日本人といえども深く感謝せねばならん事である。

(前同)

 ヨセミテ国立公園やイエローストーン国立公園の事例が紹介され、明治時代の熊野にこのような人物がいたのかと驚かされます。

 米国の一記者かつて日本に遊び、帰来その土産話に曰く「日本へ行き胸悪く思うたのは聖天の懸直と車夫の強請、それから便所。感心せぬのが東京の銀座街。ちょっと面白く見たのがいずれの町や村を通っても必ずある森の祠(神社の事)と古い木造の建物だ。神戸へ着いたとき二三の同志とわざわざ田舎へ出かけて森の祠を見に行った。中央に神さんを祭ってあってその周りに数百歳の年齢を重ねた老樹が沢山生えて居る。森の中では、村の小娘や子供等が遊んで居た。まあ自分等の国にある公園の古いやつさ。樹木や風景の珍らしさに釣り込まれて到頭半日をこの森の祠で費した。(以下略)」

 これで見ても如何に西人が我国の神社に深い興味をもって居るかという事がわかる。

(前同)

 海外で暮らしたことのある人物だからこそ、日本にある、地域にある本当に大切なものが何であるのかがわかっていたのでしょう。

 しかるに我国民自らその神社を破壊し神木を乱伐し尽そうとするのは如何にも愚かな行いではあるまいか。私は切に望む。前に述べた近露や野中の旧神社のような由緒あり歴史ある古い神社跡及び神木等はお宮様のある無しに拘らず、国宝として大切に保存して置きたい。

 かの幾百歳であるか、年齢の推測も出来ぬような大樹、後で取返しの出来ぬその土地、その国の記念物である所の老木古杉をたった千や二千の端金に代えて、伐倒してしまうのは村民としてまた帝国臣民として如何にも愚の極であると思う、かくの如き愚行を敢えてしては、我等の子孫や後世に対しても重々相済まぬ。当局の諸氏もこれに関係する町村の人民諸君も篤と御反省あらん事を切望する。

(前同)

 近露王子の森はすでに破壊されてしまっていましたが、せめて近露春日神社跡と野中王子跡の二社の森だけは守らなければと熊楠や野長瀬忠男は戦いました。

およそ百十年前のエコロジー

 熊楠は川村竹治和歌山県知事にも書簡を出して訴えました。

二社の神林いかに珍奇の古木に富むかは、本書とともに差し上げ候本月十七日の『牟婁新報』切り抜きにて御覧下されたく、この外に、これらの古木に種々雑多の寄生植物、托生植物あり。いずれも熊野植物の精華を萃めたるものに御座候。御承知ごとく、殖産用に栽培せる森林と異り、千百年来斧斤を入れざりし神林は、諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑致し、近ごろはエコロギーと申し、この相互の関係を研究する特種専門の学問さえ出で来たりおることに御座候。しかるを、今無智私慾の徒が、単に伐採既得権云々を口実とし、是非に、かかる希覯の神林を、一部分なりとも伐り去らんとするは、内外学者に取りても、史蹟名地のためにも、はなはだ惜しいまるることに有之。

(川村竹治宛書簡、明治44年11月19日付『南方熊楠全集』7巻、平凡社)

 『全集』のなかに収められた文章の中で熊楠がエコロギー(エコロジー)という言葉を使っているのは、もう一ヶ所。柳田國男に神島の植物について説明する文章の中で「実に世界に珍奇希有のもの多く、昨今各国競うて研究発表する植物棲態学 ecology を、熊野で見るべき非常の好模範島」と書かれています(柳田國男宛書簡、明治44年8月7日付『南方熊楠全集』8巻、平凡社)。

 日本で最初にエコロジーを紹介したのは、東京帝国大学教授の三好学だといわれます。三好学は明治41年(1908)に出版された『植物生態学』のなかで「生態学 Ecology」と紹介しています。
 エコロジーという言葉を造ったのはドイツの生物学者エルンスト・ヘッケル。熊楠は三好学の著作からエコロジーを知ったわけではなく、在米・在英時代にヘッケルの著作からエコロジーという学問を学んでいました。

 エコロジーを三好学は「生態学」と訳し、熊楠は「植物棲態学」と訳しました。熊楠が「生」を「棲」としたのは、三好学との違いを主張するためでしょう。三好学はエコロジーを生物の生活状態を研究する学問と捉え、熊楠はそこに住む生物相互の関係を研究する学問と捉えました。三好学が行った天然記念物保護運動は1本の大樹や珍しい動植物、特定の個体や特定の生物種を保護しようとし、熊楠の行った神社合祀反対運動は森全体を保護しようとしました。

 また野中王子社趾には、いわゆる一方杉とて、大老杉、目通り周囲一丈三尺以上のもの八本あり。そのうち両社共に周囲二丈五尺の杉各一本は、白井博士の説に、実に本邦無類の巨樹とのことなり。またこれら大木の周囲にはコバンモチというこの国希有の珍木の大樹あり。托生蘭(たくせいらん)、石松類(なんかくらんるい)等に奇物多し。年代や大いさよりいうも、珍種の分布上より見るも、本邦の誇りとすべきところなる上、古帝皇将相が熊野詣りごとに歎賞され、旧藩主も一代に一度は必ずその下を過(よぎ)りて神徳を老樹の高きに比(よそ)え仰がれたるなり。すべてかかる老大樹の保存には周囲の状態をいささかも変ぜざるを要することなれば、いかにもして同林の保存を計らんと、熊楠ら必死になりて抗議し、史蹟保存会の白井、戸川〔残花〕二氏また、再度まで県知事に告げ訴うるところあり。

(「神社合祀に関する意見(原稿)」白井光太郎宛書簡、明治45年2月9日付『南方熊楠全集』7巻、平凡社)

 「老大樹の保存には周囲の状態をいささかも変ぜざるを要する」。これがエコロジー(植物棲態学)から導き出される熊楠の自然保護の考え方でした。

これらの木を伐らんがため、九十九王子中もっとも名高き野中と近露王子を、何の由緒も樹木もなき禿山へ新社を作り移し、さて件の木を伐らんと言い来る。只今の制度悪く何村第何号林何号木という書きようゆえ、名木やら凡木やらちょっと分からず。小生前に心がけおりしゆえ、これを抗議せしに、村長なるもの、しからば下木を伐らせてくれという。小生いわく、下木をきれば腐葉土なくなるゆえ、つまり老大木を枯らす、下木は断じて伐るを禁ずべし、と。村長恥じていわく、その下木(大杉叢の直下に雑生せるヒサカキ、マサキ、サカキ、ドングリ等の雑小林)をいうにあらず、一方杉の生ぜる所よりずっと数町下の谷底に生えた木を下木という、とごまかし去り一笑にてすめり。

松村任三宛書簡、明治44年8月31日付『南方熊楠全集』7巻、平凡社)

 下木を伐れば腐葉土なくなる。腐葉土がなくなると、菌根菌という植物の根と共生して植物にリン酸や窒素を供給する菌類が死滅し、老大木は養分を吸収できなくなって枯れる。そう熊楠は述べています。老大木を保護するには老大木だけでなく、下生えの木や菌類も含めて森をまるごと保護する必要があるのです。

 熊楠たちは野中と近露の神社跡の森を守ろうと様々な働きかけを行いましたが、結果として近露春日社跡の森も伐られ、野中王子跡の森も一部を除いて伐られてしまいました。

知事はその意を諒とし、同林伐採を止めんとせしも、属僚輩かくては県庁の威厳を損ずべしとて、その一部分ことに一方杉に近き樹林を伐らしめたり。過ちを改めざるを過ちと言うとあるに、入らぬところに意地を立て、熊楠はともあれ他の諸碩学の学問上の希望を容れられざりしは遺憾なり。かくのごとく合祀励行のために人民中すでに姦徒輩出し、手付金を取りかわし、神林を伐りあるき、さしも木の国と呼ばれし紀伊の国に樹木著しく少なくなりゆき、濫伐のあまり、大水風害年々聞いて常事となすに至り、人民多くは淳樸の風を失い、少数人の懐が肥ゆるほど村落は日に凋落し行くこそ無残なれ。

(前同)

 野中王子跡にわずかに残された野中の一方杉。枝を一方の方角(南)に伸ばしていることからそう呼ばれる8本の杉の巨木。
 森全体が残されていたらどんなに神々しい空間であったろうかと思うと残念でなりませんが、わずか九本でも残すことができたのは熊楠と地域住民たちがこの森を守ろうと奮闘したおかげです。熊楠たちの保護運動がなければ、野中の一方杉さえも伐られていました。

後年幸いに皇族またかしこきあたりが熊野詣で等あらんに、神林ある社一つもなしとありては、いかにもつまらず候。

(柳田國男宛書簡、明治44年10月26日付『南方熊楠全集』8巻、平凡社)

 残念ながら現在、田辺から本宮に向かう熊野古道・中辺路に神々しさを感じられるような森のある王子社はほとんどありません。野中の一方杉さえも失われていたらと考えると、ぞっとします。南方熊楠が明治の末期に熊野にいてくれてよかったと心から思います。 

継桜王子

 継桜王子跡にはおよそ110年前に伐採された切り株の跡がまだ一部残っており、熊楠が守ろうとした森に包まれた王子社の姿を想像する足がかりとなります。

 継桜王子の現在の姿は、価値のある大切なものでも簡単に破壊されてしまうのだという現実を私たちに示しています。だからこそ地域にある大切なものを守るには、それが価値のあるものだと地域の人たちが言い続けていかなければなりません。価値のあるものを守り続け、子孫や後世に引き継いでいくことの大切さを継桜王子や熊野古道は教えてくれています。

(てつ)

2003.2.14 UP
2020.3.26 更新
2021.3.22 更新

参考文献

継桜王子へ

アクセス:JR紀伊田辺駅から龍神バス熊野本宮行きで1時間25分、一方杉下車、徒歩30分
駐車場:駐車場はないが、駐車スペースあり

熊野古道レポート
■中辺路町の観光スポット