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◆ 浄瑠璃「五十年忌歌念仏」


 本宮町の無形民俗文化財に指定されている土河屋(つちごや)の「お夏清十郎踊り」。
 万治3年(1660)に実際に起こったお夏と清十郎の悲恋の事件が、
井原西鶴や近松門左衛門により小説化され、戯曲化されましたが、それらが踊りに取り入れられたようです。

 土河屋へ伝来については様々な説があるらしいのですが、城清助(由助とも。1832.4.20生まれ)が西国三十三ケ所巡礼の道中に大阪府石川郡春日村(今の大阪府南河内郡太子町)の西竹七の長女ソメ(1844.5.15生まれ)とねんごろになり、明治5年(1872)、土河屋で結婚。妻となったソメが土河屋に伝授したとの説がありますので(巡礼の途中で男女が知り合って恋仲になり、結婚するということはわりとあったようです)、この踊りが土河屋へ伝来したのは明治の初めの頃のようです。

 「お夏清十郎踊り」の口説の歌詞をご紹介します。

サーエーンチョーンチョン
サー向い通るはナーンナーン コリャ
清十郎じゃないか ヨイ
サー笠がよく似たすげ笠が
エーンチョーンチョン

サー笠が似たりとてナーンナーン コリャ
清十郎であれば ヨイ
サー熊野参り(お伊勢参り)はみな清十郎
エーンチョーンチョン

サーお夏なつなつナーンナーン コリャ
夏に帷子がよい
サー何に染めよとナーンナーン コリャ
清十郎に問えば ヨイ
サー裾は立浪 ナーンナーン コリャ

地はうすがきに ヨイ
肩は清十郎と寝た(似た)心
エーンチョーンチョン

サーお夏なつなつナーンナーン コリャ
なぜに髪をとかぬ ヨイ
サー櫛がないかよナーンナーン コリャ
小枕がないか ヨイ
サー櫛にもござんすナーンナーン コリャ
小枕もござる ヨイ
サー親にや離れるナーンナーン コリャ
清十郎は殺す ヨイ
サー何がおもしゅろて髪とこに
エーンチョンチョン

サー鳥になりたやナーンナーン コリャ
孔雀の鳥に ヨイ
サー飛んで行きたやナーンナーン コリャ
二善橋を越えて ヨイ
サー清十郎み墓に花折りに
エーンチョンチョン

サー清十郎み墓に花折りにナーンナーン コリャ
行てからの戻り ヨイ
サー足がしどろで歩まねん
エーンチョン チョン

 清十郎は捕らえられて処刑され、お夏は狂乱となった、悲恋の事件。
 この事件に取材し、その五十年忌に当たる宝永6年(1709)1月2日に初演となった近松門左衛門の浄瑠璃「五十年忌歌念仏」。

 この浄瑠璃には熊野比丘尼が登場します。熊野比丘尼とは、熊野信仰を広めるために全国各地を巡り歩いた女性宗教家で、三山のために勧進(かんじん。社殿などの造営修復のために寄付を求めて歩くこと)したので勧進比丘尼とも呼ばれ、「熊野勧心十界曼陀羅」を持ち歩き、その絵解きをして熊野権現の慈悲を説いたので絵解き比丘尼とも呼ばれ、また、ささら(竹を細かく割って束ねて作った楽器)を摺りながら歌念仏や流行唄をうたって人々を引き付けもしたので歌比丘尼とも呼ばれました。

 それでは「五十年忌歌念仏」の粗筋を(熊野に関連がある場面は現代語訳して)ご紹介します。

上之巻

 和泉国水間の里の百姓、左治右衛門の息子、清十郎は、播州姫路の米問屋但馬屋九左衛門方で奉公していた。
 左治右衛門は、娘のお俊(しゅん)と清十郎の許嫁のお三(さん)の三人連れで、清十郎の奉公先へ年賀に赴く途中の道頓堀の船上で、息子の朋輩の堪十郎と偶然出会う。

 堪十郎は「但馬屋へは行かないほうがよい」と言う。「清十郎が旦那の娘お夏と密通して身籠らせた。お夏は親戚への縁談が決まっていて、自分がここで嫁入り道具を受け取り帰国し次第、嫁入りするが、あの腹では問い質されるに決まっている。そうなれば、清十郎ははりつけ、親兄弟も同罪である」

 堪十郎の船に嫁入り道具を積み込みに蒔絵屋の船が近づいてくる。
 「代金を渡せば嫁入り道具がくだり、嫁入りとなるが、なんとか嫁入りを延ばせば、その隙に清十郎を逃がすこともできる」と堪十郎。
 そういうことで堪十郎のいうがままに左治右衛門は「但馬屋のお夏の祝言について異存があるため、嫁入り道具を押さえとどめる」との証文を書き、堪十郎と蒔絵屋に渡した。

中之巻

 お夏の嫁入りの準備でにぎわう但馬屋。しかし、お夏はまったく嫁入りする気がない。お夏の心は清十郎にあった。
 そこへ清十郎と勘十郎が一緒に帰ってくる。二人は九左衛門に仕事の報告をする。清十郎は仕事がうまくいったことを報告し、勘十郎は嫁入り道具のことを「嫁入り道具はできていて代金も渡しましたが、嫁入り道具を止められてくだりません」と報告する。
 九左衛門は怒るが、勘十郎は内密の話があると言い、裏の小座敷に行く。

 清十郎は奥に嫁入りの蚊屋を見つける。お夏は清十郎に駆け寄り抱きつく。
 旦那の娘と手代では身分が違うと清十郎は恋を諦め、里に許嫁もいたが、二人はじつのところ想いあっていた。
 「人の来ぬ間に蚊屋の使い初めをしよう」とお夏が誘い、二人は蚊屋で結ばれた。
 そこへ内手代の源十郎が来る。
 お夏は「見逃してもらおうか。告げ口するなら二人は死ぬ」と脅し、源十郎は告げ口しないことを約束してその場を去る。

 しかし、源十郎はすぐさま勘十郎に報告して二人は捕らえられた。
 九左衛門は涙をこぼして怒る。
 「密通だけでなく、親と言い合わせて嫁入り道具がくだるのに邪魔を入れて私に恥をかかせ、但馬屋を覆そうとしたな。これが証文だ」と証文を見せる。
 親に会ってもいない清十郎にはまったく預かり知らぬこと。しかしながら、そんな話が通用するわけもなく、清十郎は粗末な服に着替えさせられ、盗人の疑いまでもかけられ、追い出される。お夏は涙に暮れる。

 夜になり、お夏は部屋を忍び出て門の外に出てみると、清十郎がいた。「二人で逃げ出そう」とお夏は言うが、「それでは親方の憎しみが増す。親元に帰り、親とともに勘十郎の悪事をただし、実の潔白を証明して詫びれば許してもくれるだろう」と清十郎。二人は互いの服を取り替えた。

 別れようとしたとき、下女が出てきて清十郎をお夏と勘違いし、清十郎を連れて門の中に入れる。清十郎は部屋に入るふうをして釜の中に身を隠した。
 お夏は外で清十郎が出てくるのを待つ他なかったが、清十郎に思いを寄せていた別の下女が出てきて、お夏を清十郎と勘違いして清十郎への思いを伝える。お夏は下女の後に続き門内に入り、部屋に駆け込み、布団をかぶった。

 そうとは知らない清十郎。釜の蓋を開けて辺りを見回すと、行灯をつけた勘十郎の部屋に源十郎が来て二人で話をする。そのうち、行灯が消され、源十郎が寝入ってしまう。勘十郎は源十郎を自分の布団に移して自分は納戸に入る。
 清十郎は釜から這い出て勘十郎を殺す決意をし、眠っている源十郎を勘十郎と思って刺し殺し、逃亡する。
 お夏も、清十郎の後を追ってさまよい、ついに狂乱となってしまう。

 ここからしばらく全文現代語訳。

下之巻  おなつ笠物狂

 「夜さ恋(よさこい)という字を金紗で縫わせ、裾に清十郎と寝たところ、裾に清十郎と寝たところ(当時の流行唄。「夜さ恋」は、晩に忍んで来いの意。恋の字を大きく崩し、肩から腰にかけて金糸で縫い、裾にはお夏と清十郎の逢い引きの様を模様にした伊達衣装があった)

 流行唄をうたい、「ちと勧(ちとかん。少し勧進の意。熊野比丘尼が寄付を求めるときにいう言葉。)」と寄付を求める二人の熊野比丘尼(お俊とお三が清十郎の身を案じて熊野比丘尼に扮して郷里から姫路に向かっている)
 よくよく思えば夢の世だ。寝て温めた懐子。いつの間にか浮かれはじめ、広い世界を家として袖を笠として雨をしのぐ仮の枕の野宿生活。
 遊女ではない真実の比丘尼としてささらを持つ手に手甲をはめている。お手を引かれた(?)。これも熊野の修行か。

 「姉様、これ。勧進柄杓(熊野比丘尼が金品をもらうときに受ける柄杓)の柄。笑顔がよいといって柳が招く(?)。黒髪を剃ってなぜ浮き世を恨んで尼になったのか。尼崎とは海の近くなのに、なぜそなたは潮(愛嬌)がないのか。節は哀れに姿は派手に歌念仏をうたう歌比丘尼」

 「向いを通るは清十郎じゃないか。笠がよく似た、菅笠が。よく似た笠が。笠がよく似た菅笠が。笠が道しるべの物狂い」とお夏。
 物に狂うのも私だけか。更けゆく鐘の音を聞きながら待つ宵の苦しさ。鶏の声に急き立てられて別れる暁の悲しさ新古今集 十三 「待つ宵にふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥は物かは」による)

 恋する人を夜な夜な尋ねるのを気狂いといってお笑いなさるな。
 伝え聞く孔子は鯉魚(りぎょ。孔子の長子。鯉魚は孔子に先立って没した)に別れ、思の火を胸に焚き、白居易はまた我が子を先立てて、枕に残る薬を恨む(謡曲「天鼓」による)。子との別れに涙を流すのは当然のことだ。
 親より子より我が身より愛しい殿御が愛おしい。それより便りで「声も聞かねば顔も見ない。私は秋の鹿。夫を恋し、帰れと泣く」と知らせたい。

 「ねえねえ、そこにいるお坊さん。私の殿御を返してください。どこへ連れて行くのか。男を返してください」とお夏。
 「いや、お坊さんとは見誤りであろう。私も殿御に思い焦がれている丸太船(比丘尼姿をして色を売る女のことを丸太といった)。浮き世を渡る一節を歌えや歌え。泡沫の」

 「小船造りてお夏を乗せて、花の清十郎に櫓を押さしょえかん(当時の流行唄)

 観音菩薩の誓いには、枯れた木にも花が咲く、花笠。笠に挿したのはの葉(ナギは熊野の神木。ナギの葉はお守りになった)。腰に挿したのもナギの葉。
 一枝、二枝。三日に三枚、七日に七枚。七枚起請牛玉を7枚継ぎ合わせて、その裏に書いた誓いの言葉)の心の裏表ない誓紙の牛玉(社寺が発行するお札。熊野の牛玉が最も神聖視された)を焼いて灰にして互いに飲んだ。

 水も漏らさぬ仲睦まじさなのに引き合わせない神の心。熊野の神はお留守か。足柄箱根玉津島貴船や三輪の明神も、神ならば尋ねる人に逢わせてみせよ。
 それそれ、逢わせない、逢うことができないのはみな偽りの神様だとそしっても祈っても、神の力でも願いが叶わないのかと、笠も添え髪もかなぐり捨てて狂い嘆くのが哀れである。

 二人の比丘尼も涙をこらえ「私も尋ねる人のため仮に比丘尼に扮しているのだ。思い当たることがあれば知らせ申し上げよう。国所、有り様を語りなされ」…

 現代語訳終わり。続きはまた粗筋のみで。

 お夏は「その人の名は清十郎」と言う。
 二人の比丘尼は「同じ人を尋ねていたのか。我らは同じ縁に繋がる者同士」と、三人、手に手を取って泣き叫ぶ。
 三人で連れ立って清十郎を尋ね行くうちに、三人は清十郎の処刑の場に辿り着く。

 お夏は清十郎を見て泣き出し、清十郎はお夏に気づく。清十郎は最後のたばこを所望し、許され、お夏がたばこを差し出す。一服ののち、清十郎はそのきせるでのどを突いて自害をはかる。お夏も役人が立てていた抜き身の槍にのどを突き自害をはかった。

 その後、代官所の役人が但馬屋一家や清十郎の父、左治右衛門を連れてやってきた。左治右衛門は証文を書いたいきさつを話し、清十郎も最期に息も絶え絶えに恨みを述べる。
 代官は「勘十郎を直接人を殺してもいず盗人の証拠もないので、出家をして死者の菩提を弔え」との裁決を下す。

 すぐさま勘十郎はもとどりを切り捨てる。道心を起こした勘十郎は、己の悪事を懺悔し、「斬ってさらし首にせよ」と言いきった。
 清十郎は妄執も晴れて穏やかな顔で往生した。お夏は息を吹き返し、その後、出家し、清十郎の菩提を弔った。

 これで「五十年忌歌念仏」はお仕舞いです。

 熊野比丘尼は、庶民への熊野信仰の浸透に多大な貢献を果たしたと思われるのですが、熊野信仰の衰えとともに彼女らも零落しました。
 江戸時代初期には春をひさぐ者も出てきたようで、次第に熊野比丘尼は遊女の一種と考えられるようになりました。

(てつ)

2005.7.10 UP

◆ 参考文献

『本宮町史 文化財編・古代中世史料編』
日本古典文学大系『近松浄瑠璃集 上』岩波書店

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