熊野本宮・新宮・那智
熊野三山(くまのさんざん)とは、紀伊半島南部、熊野にある、本宮(ほんぐう)・新宮(しんぐう)・那智(なち)の3つの聖地をまとめていう場合の総称です。
本宮とは熊野本宮大社のことで、和歌山県東牟婁郡本宮町に鎮座し、主神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ。家都御子大神とも)。
新宮は熊野速玉大社。和歌山県新宮市に鎮座し、主神は熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)。
那智は熊野那智大社。和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に鎮座し、主神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ。熊野結大神とも)。
本宮はもともとは熊野川・音無川・岩田川の三つの川の合流点にある中洲に鎮座していました。明治22年(1889年)の大水害により被害を受けて近くの高台に遷座。現在に到ります。
新宮は熊野川の河口付近に鎮座しています。その起源を新宮から1~2kmほど南に位置する神倉山(かみくらやま)のゴトビキ岩に求める説もあり、そうだとしたら、新宮もはるか昔のことではありますが、遷座しているということになります。
那智は現在、那智山中腹の高台にあります。しかし、古くは那智の滝の滝つぼ付近にあったであろうことは容易に想像でき、仁徳天皇五年(317年)に現在地に遷座されたとの説も伝えられています。
神道と仏教の融合
平安時代中期の全国の主要な神社を列記した『延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう。これに記載された神社を式内社(しきないしゃ)と呼びます)』に、本宮は熊野坐神社(くまのにますじんじゃ)として、新宮は熊野速玉神社として記載されていますが、那智の名はありません。
それは、おそらくは那智が神社ではなく、山岳宗教の行場として認識されていたからなのでしょう。本宮・新宮・那智はそれぞれ独自に神や仏を祀り、独自の信仰形態を持っていたものと思われます。
それが、連帯関係を結び、一体化して熊野三山となったのは、三山という仏教的な呼び方からもわかるように、やはり、仏教が大きな影響を与えたためだと思います。
6世紀に伝来された仏教は日本国内に普及していく過程のなかで、次第に神道との融和をはかるようになり、また、神道の側でも仏教との融和をはかるようになりました。
そうした流れのなかで、神の本体は仏であるという考え方が生まれました。本地垂迹(ほんじすいじゃく)説といい、仏や菩薩がもともとの本体であり、人々を救うために仮に神の姿をとって現われたのだという考え方です。本体である仏や菩薩を本地といい、仮に神となって現われることを垂迹といいます。また、仮に現れた神のことを権現(ごんげん)といいます。
こうした本地垂迹思想を受け入れることにより、これまで別個の信仰であった本宮・新宮・那智のそれぞれが「神仏習合」という新しい共通の信仰形態を手に入れることができたのだと考えられます。
「神仏習合」という共通の信仰の土台ができたことにより本宮・新宮・那智は協力関係を築きあげることができるようになったのでしょう。
平安時代中期ころにそれぞれに互いの主神を祭りあうようになったようで、一体化して、熊野三山、あるいは熊野三所権現(くまのさんしょごんげん)と呼ばれるようになりました。
浄土の地
本宮の主神の家都美御子神は阿弥陀如来、新宮の速玉神は薬師如来、那智の牟須美神は千手観音を本地とするとされ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになりました。
本宮極楽浄土が来世の救済を、新宮浄瑠璃浄土が過去世の罪悪の除去を、那智補陀落浄土が現世の利益をうけもつという三位一体の信仰システムが形作られたのでした。
とくに阿弥陀如来を本地とし、阿弥陀の極楽浄土とみなされた本宮の社殿は「証誠殿(念仏者の極楽往生を証明する社殿の意)」と呼ばれ、そこに参詣すれば浄土往生が確実になるとされました。
上皇たちの熊野詣
熊野が広くその名を知られるようになるのは、院政期、上皇による熊野御幸が行われるようになってからです。
白河上皇9回。
鳥羽上皇21回。
後白河上皇34回。
鎌倉時代に入って、後鳥羽上皇が28回。
院政期、上皇の熊野御幸はほぼ年中行事と化していました。
これほどまでに上皇や女院や貴族たちに熊野信仰を浸透させることができたのは、修験者(山伏)の働きかけがあってのことだと思われます。
当時、熊野は修験道の一大中心地であり、修験者が熊野詣の道案内人をつとめました(熊野は辺境の山岳地帯にあるので、道案内が必要とされました)。この道案内人を先達(せんだつ)と呼びましたが、先達は道案内だけでなく、道中の作法の指導も行いました。
熊野詣の道中では、所々で祓えをし、海辺や川辺では垢離(こり。冷水を浴びて、身と心を清めること)を掻き、身心を清め、王子社では幣を奉り、経供養などを行いましたが、このような熊野詣の作法を作り上げたのも、熊野修験者だったのです。
蟻の熊野詣
南北朝から室町時代にかけては、それまでの熊野山伏に代わり、時衆(じしゅう。のちに時宗)の念仏聖たちが熊野信仰をもりたてていきました。
時衆とは、一遍上人(1239~89)を開祖として鎌倉時代に興り、日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新仏教で、時衆の念仏聖たちは熊野を特別な聖地と考え、熊野の勧進権を独占し、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広めていきました。
その結果、「蟻の熊野詣」と、蟻が餌と巣の間を行列を作って行き来する様にたとえられるほどに、大勢の人々が列をなして熊野を詣でるようになったのです。
その列をなした人々のなかには女性も大勢いました。
これは特筆すべきことで、熊野は山岳宗教の中心地のひとつでありながら、女性の参詣を禁じませんでした。禁じないどころか積極的に受け入れていました。
熊野権現は、当時不浄とされていた女性の生理でさえ気にしませんでした。熊野ほどに女性の参詣を歓迎した社寺は他にありません。
また、熊野は、当時、忌み嫌われ、社会の最下層に追いやられていたハンセン病者をも受け入れました。熊野権現の御利益はあらゆる人々に無差別に施されるものだったのです。
熊野は、男であろうが女であろうが、老人であろうが若者であろうが、身分が高かろうが低かろうが、出家していようが在家であろうが、なんであろうが、あらゆる人々を受け入れる聖地であったのです。
そのように、中世、日本最大の霊場として栄えた熊野でしたが、やがてその熱狂振りも衰微していきます。
江戸時代、熊野三山は紀州藩の宗教政策のもと、神道化。それまで熊野信仰普及に多大なる貢献を果たしてきた熊野山伏や念仏聖、熊野比丘尼たちの活動を抑圧しました。その結果、熊野信仰は衰微していきます。
明治に入ってさらに決定的なまでに熊野信仰は衰微します。その最たる原因は、明治元年(1868年 )の神仏分離令。本地垂迹思想により仏教と渾然一体となっていた熊野信仰にとって、国家の神道国教化政策は大きなダメージとなりました。これにより熊野を詣でる人は激減したといわれています。
(てつ)
2002.12.29 UP
参考文献
- 梅原猛『日本の原郷 熊野』とんぼの本 新潮社
- 加藤隆久 編『熊野三山信仰事典』神仏信仰事典シリーズ(5) 戎光祥出版
- 中沢新一『ゲーテの耳』河出文庫
- 神坂次郎 監修『熊野古道を歩く―熊野詣』講談社カルチャーブックス