那智権現の末寺
那智の浜の近く、那智駅から徒歩5分ほどのところにある補陀洛山寺。補陀洛山寺の本堂は、平成2年に建て替えられたということで、真新しいです。すぐ隣には熊野三所大神社という神社があります。
神社のすぐ隣にお寺があるなんて、と不思議に思われる方もおられると思いますが、かつて熊野ではこれが普通でした。熊野は神仏習合の聖地。熊野信仰は、神道や仏教や修験道が混然一体となり、形作られていたのでした。
明治の神仏分離、廃仏毀釈により、熊野でも多くの寺院が排され、神道化していきましたが、ここではその神仏習合の名残を見ることができます。
補陀洛山寺は、浜の宮王子の守護寺で、那智権現所属の七ヶ寺の本願のひとつ。
那智権現の末寺のひとつでした。天台宗に属し、山号は白華山。本尊は十一面千手観音。本尊は重要文化財に指定され、平安後期の作と伝わっています。
また、明治初年、那智山で神仏分離が行われるに際して、那智山の仏像仏具類は、この補陀洛山寺に移されたそうです。
補陀落渡海の根本道場
この補陀洛山寺は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで知られています。
「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住まう浄土のことをいい、『華厳経』にはインドの南端にあると説かれているそうです。観音信仰の流布とともに、チベットや中国にも補陀落は想定されました。チベットではラサ北西に建つ、観音の化身ダライラマの宮殿をポタラ(補陀落)宮と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を補陀落としました。
日本においては南の海の果てに補陀落浄土はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して船出することを「補陀落渡海」といいました。
日本国内の補陀落の霊場としては那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがありましたが、記録に残された40件ほどの補陀落渡海のうち半数以上が熊野那智で行われています。熊野は補陀落渡海の根本道場といってもよい場所でした。
話が逸れますが、日光について。
日光は昔、フタラと呼ばれ、「二荒」と書いていたが、それをニッコウと音読みし、それから「日光」の字が当てられたと伝えられていますが、そのそもそものフタラとはフダラクから来ています。
また、日光山は鎌倉時代初期、熊野で修行した弁覚が中興し、熊野修験の修法を大幅に取り入れたといわれています。
渡海上人
さて、この那智の浜からは25人の観音の信者が補陀落を目指して船出したと伝えられています。
境内にある石碑に、それらの人々の名が刻まれています。
平安前期の貞観十年(868)の慶龍上人から江戸中期の亨保七年(1722)の宥照(ゆうしょう)上人まで25人。
平安時代に5人。鎌倉時代に1人。室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)。安土桃山時代に1人。江戸時代に6人。
寺の裏には渡海した僧たちの墓が残されており、墓碑には「勅賜補陀落渡海○○上人」と記されています。『平家物語』では平重盛の嫡男 平維盛が補陀落渡海をしており、その供養塔もあります。
補陀落渡海をした人物として、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には鎌倉武士 下河辺行秀(しもかわべゆきひで)があります。
下河辺行秀は源頼朝の家臣。
下野(しもつけ)の国の那須野で頼朝が狩りを催したとき、勢子に追われて、大きな鹿が1頭、飛び出してきた。
そこで、行秀が命じられ、矢を射たが、鹿には当たらなかった。逃げる鹿を別の人間が射、見事、射当てた。
行秀はこの恥辱に耐えかね、その場を逐電、行方知らずとなった。
それからしばらくして、行秀が熊野で法華経を読んでいるとの噂が立つ。
そして、行秀が那智の浜から補陀落渡海を行ったとの書状が鎌倉に届いた。
補陀落山寺は、仁徳天皇の時代にインドから漂着した裸形上人によって開かれたと伝えられ、また、天福年間(1233~34)に智定房が開いたとも伝えられています。
智定房は行秀の法名。行秀の補陀落渡海が世に与えたインパクトから智定房が開いたというような伝承が生まれたのでしょうか。
補陀落渡海の方法
補陀落渡海の多くは11月、北風が吹く日の夕刻に行われたそうです。
渡海僧は当日、本尊の千手観音の前で読経などの修法を行い、続いて隣の三所権現を拝し、それから船に乗りこんだのでしょう。
渡海僧が乗りこんだ船を復元したものがお寺の境内にある建物のなかに展示されています。
奇妙な形をした小さな船です。船の上には屋形が作られています。それからその屋形の前後左右を4つの鳥居が囲んでいます。
この渡海船の上に立つ4つの鳥居は「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の四門を表わしているのでしょう。修験道の葬送作法によると、死者はこの4つの門をくぐって浄土往生すると考えられています。
渡海船に立てられた4つの鳥居は、渡海船がそのまま葬送の場であることを表わしているのでしょう。展示されている船には帆は掛けられてはいませんが、船出の折には白帆があげられました。
渡海僧は、30日分の食料と灯火のための油を載せて、小さな屋形船に乗りこみます。
渡海僧が船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように扉には外から釘が打ちつけられたそうです。
渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われます。
船のしつらえや渡海の方法などは時代により異なるのでしょうが、補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身を南海にて観音に捧げる捨身行だったのでした。
死亡してからの補陀落渡海
平安から鎌倉までは本気で補陀落往生を求めて渡海していたようですが、室町時代以降、儀式化したようで、補陀洛山寺の住職は60歳くらいになると、渡海する慣わしになっていたようです。その年を過ぎても渡海しない場合は信者に後ろ指を指されたといいます。
しかしながら江戸時代には生者の渡海は行われなくなり、代わって、補陀洛山寺の住職が死亡した場合、あたかも生きているかのように扱って、かつての補陀落渡海の方法で水葬を行うようになりました。
そのきっかけとなったと伝えられるのが次に述べる事件。
戦国時代のこと。金光坊という僧が船出したものの、途中で命が惜しくなり、屋形を破り、船から逃げだして、小島に上がってしまった。役人はこれを認めることができず、金光坊を海に突き落として殺してしまった。そういう凄惨な話が伝えられています。
この事件がきっかけとなり、生者の補陀落渡海はなくなったそうです。
現在、那智浦沖には金光坊(こんこぶ)島と呼ばれてる小島があります。
(てつ)
2001.5.10 UP
2002.6.16 更新
2019.11.14 更新
参考文献
- 加藤隆久 編『熊野三山信仰事典』戎光祥出版
- 梅原猛『日本の原郷 熊野』とんぼの本 新潮社
- 高野澄『熊野三山・七つの謎』祥伝社 ノン・ポシェット
- 宇治谷孟『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫
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