時宗開祖一遍上人の真蹟と伝わる名号碑
南北朝から室町時代にかけて熊野信仰を盛り上げていったのは修験道でもなく神道でもなく、時衆(のちに時宗)という仏教の一派でした。
時衆とは、一遍上人(いっぺんしょうにん。1239~1289)を開祖とし、鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新仏教です。
時衆はのちに衰退し、熊野でも現在はかすかにその痕跡を残す程度になってしまいましたが、 その痕跡のひとつが新宮市熊野川町、万歳峠(ばんぜとうげ)近くにある一遍上人名号碑です。
新宮市熊野川町志古(しこ。ジェット船乗り場がある)から道幅の狭い道を車を走らせること15分程だったでしょうか。熊野古道伊勢路の万歳峠への道を通り過ぎて少し行くと、向かって右、道下にあります。途中の道沿いには、この一遍上人名号碑の文字を江戸時代文政年間に写し取って岩に文字を彫った磨崖の「一遍上人名号碑の写」もあり、ともども一遍上人が好きな方にはぜひ訪れていただきたい場所です。
一遍上人名号碑の傍らには桜地蔵と呼ばれる石仏が立っています。向かって左手が名号碑で右手が桜地蔵。
名号碑は割れているので、名号碑の形にくり抜いた別の石のなかに収められています。
現地に立つ案内板によると、一遍上人名号碑建立之地は和歌山県指定文化財で、桜地蔵は熊野川町指定文化財(ということですが、熊野川町は合併して新宮市となったので、そのまま新宮市指定文化財となったのでしょうか)。案内板の内容を引き写します。
和歌山県指定文化財
一遍上人名号碑
この碑は一遍上人の真蹟(弘安3年建立)と言われます。
上人の直弟子他阿真教の「奉納縁起記」によると、
『再び夢想の告げありて当山(本宮)に参籠し給うこと三七日(二十一日)終わって後、万歳の峰に石の卒塔婆を立て之を吉祥塔と名づく、聖自ら名号を書き自ら手もて其文字を彫り給う。・・・万歳とは長久の名を顕し・・』とあります。
碑の外側に刻まれている文字は判読が困難ですから、熊野年代記の記述を借用します。
『宝暦十庚辰歳六月二十五日本宮社参、二十六日攀万歳峰、宗祖一遍上人本宮参籠之時、蒙神勅自書写彫○、行字名号之石碑在テ此山亦十丁余下而草字之名号奉拝之、然右両碑為地震所壊 因■今新建石於後穿其中間安置焉。
末弟遊行五十二世他阿一海修補也
世話人日足村之住 西宇平治俊勝
一,金三両は万歳峰一遍上人石碑修造料
一,金二歩は同所両所へ当七月燈明料』
右の記述によると万歳峠には峠(津荷万歳)と此所の二ヶ所に名号碑があったことになります。熊野川町教育委員会
○は原文のまま、■は、慈から心を取り、くさかんむりを「十十」にした字。ここでは「ここに」の意味で使われていると思います。
一遍上人名号碑は湯の峰温泉にもあります。
桜地蔵
一遍上人名号碑の傍ら置かれた桜地蔵。
熊野川町指定文化財
桜地蔵
建立年代が明記されている石仏としては当町内では最も古いものです。
奉建立地蔵菩薩為江州飯道寺宝蔵坊逆修菩提也
天正十九年卯年三月日沙弥法□敬白(一五九一年)の文字が読み取れます。
飯道寺は室町時代から江戸時代初期にかけて新宮速玉神社本願庵主との関係が深かった寺のようです。
里人はこの付近を千人塚とか千人原と呼びます。その昔平家の落ち武者と源氏の追手・一説には後南朝と赤松氏が、この地で合戦におよび多くの人々が戦死しましたので、その人々を葬った場所だと伝承されています。熊野川町教育委員会
□は原文のまま。
(てつ)
2006.10.23 UP
2020.8.18 更新
2022.7.29 更新
参考文献
一遍上人名号碑へ
アクセス:新宮市熊野川町志古から林道を行く。
駐車場:駐車場はないが、駐車スペースあり