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◆ 西八王子宮(上ノ山西神社)
  (にしはちおうじのみや?/うえのやまにしじんじゃ)  和歌山県田辺市上の山2-13-31 西谷村:紀伊続風土記(現代語訳)


旧西ノ谷村の村社

 210号から狭い道に入ると「西八王子宮」の案内板。

西八王子宮(上ノ山西神社)参道

 車を1台置けるスペースがあるので、そこに車を停めて参道へ。

西八王子宮(上ノ山西神社)鳥居

 鳥居には「西八王子宮」、社標には「上ノ山 西神社」。

西八王子宮(上ノ山西神社)境内

西八王子宮(上ノ山西神社)祠

 以下、由緒書きより。

西八王子宮(上ノ山西神社)

明治6年西ノ谷村村社となり現代に至

祭神 国狭槌尊 伊邪那岐命 伊邪那美命 須佐男命 稲田姫命

 明治42年(1909年)に、上の山東神社に合祀されましたが、この神社合祀に、西八王子宮(上の山西神社)の氏子は抵抗し、復社を果たしました。

 南方熊楠の「神社合祀に関する意見」には次のように記されています(私の口語訳)。

それより遠くない所にある西の王子と言うのは、脇屋義助が四国で義兵を挙げようと打ち立った所である。この社も件の出立王子と今一大字の稲荷社とともに、 劣等の八坂神社に合祀して三社の頭字(かしらじ)を集めて八立稲神社と称させたが、西の王子の氏子は承知せず、他の大字と絶交し、一同社費 を納めず、監獄へ入れると脅しても、入れるなら本望だ、大字民70余戸のことごとくを入獄されよと答え、祭日には多年恩を蒙った神社を潰すような神職は畜 生にも劣っているといって、坊主を招致し経を読ませ祭典を済ます。神か仏かさっぱり分からない。よって懲らしめのため、神社跡地の樹林を伐り尽させようと命じたが、この神林を伐ればたちまち小山が崩れて人家を潰すうえ、その下の官道を破るゆえ、実施されない。ついに降参して郡の役所より復社を黙許した。 (「神社合祀に関する意見」口語訳6

 また熊楠の西面欽一郎宛て書簡(1911年1月25日付)には次のようにあります(私の口語訳)、

当時、近所の西の谷も社費の件について、多数は不納税、少数(金持ち連)は利益上より(海藻を取る)今年のみ納めようと争っていたところ、兵隊帰りの植芝という豪傑のために打ち負け不納に決し、小守重保氏に頼み、復旧請願書を認め中である。

 「兵隊帰りの植芝という豪傑」とは後に合気道の開祖となる植芝盛平のこと。当時20代後半の植芝盛平がこの神社合祀に反対していたことがわかります。

 周囲を住宅や商店に囲まれ、西八王子宮(上ノ山西神社)の小山が緑の小島のようでした。

 (てつ)

2010.7.4 UP
2011.12.11 更新

 ◆ 参考文献

中沢新一 責任編集・解題『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』河出文庫

 

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