熊野三山の主祭神
本宮・新宮・那智からなる熊野三山。
それぞれの主神は以下の通り。
本宮の主神は、家都御子大神(けつみこのおおかみ)。家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)とも言います。
新宮の主神は、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)の2神。
那智の主神は、熊野夫須美大神。
新宮と那智の主神である熊野夫須美大神は、熊野牟須美大神(くまのむすびのおおかみ。「牟須美」は「結」とも書かれます)ともいいます。
家都美御子大神・熊野速玉大神・熊野夫須美大神。この三神を熊野三所権現といい、熊野三山のいずれの社もこの三神を祀っています。
それぞれの主神を相互に祀りあうことによって、三社は連帯関係を結び、熊野三山となったのでしょう。
熊野の祭神の史料上の初見
熊野の祭神の史料上の初見は、『新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)』に載せられた大同元年(806。平安時代初め)の文書です。そこには奈良時代の天平神護2年(766)に、速玉神と熊野牟須美神にそれぞれ4戸の封戸(ふこ)が与えられたと記されています。
封戸とは国が貴族や寺社に与えた俸禄で、指定された戸が負担する租の半分と庸調のすべてが貴族や寺社の収入となりました。
速玉神が新宮の主神であることは明らかですが、問題は熊野牟須美神。
平安時代中期の全国の主要な神社を列記した『延喜式神名帳(えんぎしき・しんめいちょう or じんみょうちょう。これに記載された神社を式内社(しきないしゃ)と呼びます)』に、本宮は熊野坐神社(くまのにますじんじゃ)として、新宮は熊野速玉神社として記載されていますが、那智の名はありません。
『延喜式神名帳』に名のない那智は奈良時代や平安時代初期には、おそらく神社ではなく、山岳宗教の行場として認識されていたのでしょう。
そう考えると、この記事は、新宮(熊野速玉神社)の主神である速玉神と熊野牟須美神のそれぞれに4戸の封戸が与えられた(つまり合わせて8戸の封戸が新宮に与えられた)と読むことができると思います。
上記の説の他に、新宮の主神と那智の主神にそれぞれ4戸の封戸が与えられたのだとする説や、熊野牟須美神はじつは本宮の主神で、新宮の主神と本宮の主神にそれぞれ4戸の封戸が与えられたのだとする説もありますが、私は先に述べた新宮の二神にそれぞれ4戸の封戸が与えられたのだとする説がもっとも妥当だと思っています。
熊野速玉大神と熊野夫須美大神
熊野地方でもっとも古くから人が住んでいた地域はおそらく熊野川河口付近の新宮近辺でしょうから、新宮が熊野三山のなかではもっとも古い歴史をもつ神社であろうと考えられます(実際のところはわかりませんが。本宮・新宮という呼称からすると本宮の方が古いのかもしれませんし)。
その新宮の主神は、熊野速玉大神と熊野夫須美大神の二神で、この二神は夫婦神だとされます。
新宮は神倉神社を元宮とするという説があり、神倉神社の御神体の「ゴトビキ岩」と呼ばれる大岩が新宮の信仰の起源となったとされます。
「ゴトビキ岩」の神霊を現在地に遷して祭っているのだということであれば、熊野速玉大神の正体は「ゴトビキ岩」の神霊であるということになると思います。そう考えると、とてもすっきりしてきます。
「ゴトビキ岩」を上空から撮影した映像を見たことがあるのですが、あれは屹立した男性の性器です。天に向かって突き出た男根です。それ以外の何物でもありません。そうとしか見えません。
古代の人々はあの岩に象徴的な意味での自分達の父親の姿を見たのではないでしょうか。
自分達の父神に速玉神という名を付け、しかし、父親だけでは子供を生むことすらできないし、世の中どうにもならないので、夫須美神という母神を生み出し、1組の夫婦神として崇拝するようになったのではないでしょうか。
熊野速玉大神と熊野夫須美大神は、自分達を生み出した「親神」ということで崇拝されてきたのではないかと思います。
近世には熊野速玉大神はイザナギに、熊野夫須美大神はイザナミに同定されましたが、たしかに熊野速玉大神・熊野夫須美大神は、熊野版のイザナギ・イザナミということができると思います。
新宮の主神のひとつである熊野夫須美大神を、のちに那智が主神とするようになったのでしょうが、なぜ熊野夫須美大神の名を持ってきたのかは、やはり那智の信仰の起源となった那智の滝のためだと思われます。
那智の滝の姿は濡れた女性の性器を思わせます。
速玉神が屹立した男性の性器であるならば、濡れた女性の性器を思わせる那智の滝にはその妻である夫須美神の名がふさわしいと考えられたのでしょう。
家都御子大神
さて、本宮の主神である家都御子大神(家都美御子大神とも)ですが、この神様はよくわかりません。
明治22年(1889年)8月の水害時まで本宮は熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にありました。
大斎原は、川に浮かぶ森、川面から突き出た森であり、地上のほとんどを原生林が覆っていた時代においても、その周囲を川に囲まれた特異な森の姿は人々に崇拝の念を抱かせたのではないかと思われます。
川に浮かぶ森にどのような神格が与えられたのでしょうか。
いくつか説がありますが、私が最も妥当だと考えているのは、ケという生命力の神だという説です。
ケのエネルギーが枯渇するのが「ケガレ」で、ケのエネルギーを時々充填して元に戻さなければならないから、ケの神様のおわす熊野を詣でる。新たなケを得られることに熊野詣の意味があった。そのように考えると、まさに、よみがえりの地、熊野にふさわしい神様だと考えられます。
また「食」のことを古語で「ケ」ということから、食を司る神ではないかという説もあります。
大斎原の神様が食べ物の神様? 何か違うなあと私は思っていましたが、よくよく考えてみると、古代の熊野の狩猟採集民にとって食べ物を与えてくれる神様だったのではないか。私は食べ物は田畑や海や牧場などから得るものと考えていたので、森と食べ物というのが結びつかなかったのですが、森林地帯に住む狩猟採集民にとって食べ物はすべて森から与えられるものだったはずです。木の実、山菜、獣の肉や川魚。すべて、森の恵みです。
そう考えると、「家都御子大神=森の神=食べ物の神」で、家都御子大神は「ケ=食」を司る神という説もそれはそれでよいかもとも思うようになりました。
家都御子大神は国常立尊
江戸時代中期、享保6年(1721年)の高之の手になる「熊野草創由来雑集抄」(『速玉大社文書』)では、家津御子神は国常立命(クニノトコタチノミコト)だとされています。
国常立尊は『日本書紀』においては天地開闢とともに出現した神です。イザナミやイザナギよりも前に出現した、最初の、根源的な神さま。
家都御子大神は、新宮において第三殿に国常立尊とともに祭られ、那智においては第二殿にやはり国常立尊とともに祭られています(本宮では第三殿に家都美御子大神単体で祭られています)。
おそらくは熊野三山のなかでもっとも古い歴史を持つであろう新宮には、等身大の神像が3体ありますが、それは熊野速玉大神と熊野夫須美大神と国常立尊の像です。家都御子神や他の神の像はこの3体の像に比べ、やや小さく、半世紀ほど後に作られたものと考えられています。
等身大の3体の神像は、熊野三山として三社が連帯する以前に作られた神像であると考えられ、三社が連帯して神を相互に祭るようになる以前、新宮では速玉神・夫須美神の夫婦神に加え、国常立尊を祭っており、熊野三山が連帯するようになってから国常立尊の代わりに家都御子神を祀るようになったのではないかと推察されます。
熊野修験の根本経典ともいうべき『大峰縁起』では、家都御子神の前世はインドの国王である慈悲大顕王(じひだいけんおう)で、速玉神はその王子、夫須美神は王女であるとされます。ここでは速玉神と夫須美神は家都御子神の子どもです。
また熊野の神様の前世を語る室町時代の物語『熊野の本地』では家都御子神は喜見上人という僧で、熊野速玉神のは古代インドの摩訶陀国の善財王(ぜんざいおう)であり、熊野夫須美神はその妃、若一王子が王子とされます。熊野速玉神と熊野夫須美神は夫婦で、家都御子神は2人の師のような立場にあります。
家都御子神は記紀神話に登場する神のなかではイザナギやイザナミさえもがそこから生まれた世界の根源、世界の大本である国常立尊が最も近しい神だと考えられたのでしょう。そのような神であるからこそ、家都御子神は、平安時代中頃に本地垂迹思想のもと、天台宗が最も重要視した仏さまである阿弥陀如来に比定され、阿弥陀如来の権現として信仰されるようになったのではないでしょうか。
念仏する者の死後の極楽往生を約束する神様となった家都御子神はその後いつからか、江戸時代の後期からでしょうか、それとも近代に入ってからでしょうか、スサノオに同定されました。根の国(地下世界。黄泉の国にイメージが重なる)に住まう神様・スサノオと、死後の極楽浄土に人々を導く神様・家都御子神とで、死後の世界の神様という部分で両者が結びついたのだと思われます。
(てつ)
2003.12.9 UP
2003.12.10 更新
2004.2.1 更新
2020.11.29 更新
2021.4.19 更新
2021.4.20 更新
参考文献
- 小山靖憲『熊野古道』岩波新書
- 週刊 日本の街道13『熊野街道』講談社
- 宮家準『熊野修験』吉川弘文館
- 『松原右樹遺稿 熊野の神々の風景』松原右樹遺刊行会