CEPAジャパンの理事さんたちへのレクチャーのために用意した原稿
2016年9月10日(土)、生物多様性普及啓発団体である一般社団法人CEPA JAPANの理事の方々に、南方熊楠とエコロジーについて30分程度レクチャーさせていただきました。そして、その後、みなさまと意見交換をしました。
CEPA JAPANさまとは今後、熊楠に関してご一緒に取り組めることがありそうで、わくわくします。
以下の文章は、このときのレクチャーのために準備した原稿を加筆修正したものです。
写真は南方熊楠邸。レクチャー及び意見交換は和歌山県立情報交流センタービッグユーの1室で行いました。
そのあと、南方熊楠邸&南方熊楠顕彰館へ移動。
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自己紹介
こんにちは。「み熊野ねっと」の大竹哲夫と申します。
本日はこのような場にお招きいただき、ありがとうございます。このあとの意見交換では、私のほうも得られるものがいろいろとあるのではないかと、とても楽しみにしております。本日はよろしくお願いいたします。
熊楠の話の前に少し自己紹介をさせていただきます。
私は田辺市本宮町、ここも田辺市ですけれども、熊野本宮大社という世界遺産の神社がある町で暮しております。ここから車で1時間30分くらいの所です。
「み熊野ねっと」という熊野の魅力を情報発信するウェブサイトを運営しております。インターネット上ではてつと名乗っていまして、み熊野ねっとのてつさんとか、てつくんとか、てっちゃんとか、そういうふうに覚えていただけたら嬉しいです。
「み熊野ねっと」以外にも複数の熊野関連のウェブサイトを運営しておりまして、そのなかに南方熊楠のサイトもありまして、「南方熊楠のキャラメル箱」というサイトなんですけれども、そこでは熊楠の文章を現代語訳して紹介しています。その活動が認められまして、南方熊楠顕彰会という熊楠の功績を広く伝えていこうという会があるんですけれども、その会の事業部の委員をさせていただくようになりました。熊楠のイベントのお手伝いや熊楠グッズの制作などに関わらせていただいております。
南方熊楠について
それでは、まず南方熊楠という人物についてさらっとお話させていただきます。
南方熊楠は今から100年程前に熊野地方で暮しながら、学問の世界で国際的な活躍をした人物です。
現在、世界で最も権威のある科学雑誌とされる『ネイチャー』に世界で最も多く論文が掲載されているのが南方熊楠だといわれます。
熊楠の『ネイチャー』掲載論文数は51篇。これは一研究者の『ネイチャー』掲載論文数としては歴代最多。日本人最多とかのレベルではなく、世界最多ということです。
南方熊楠は、幕末、明治になる前年、慶応三年(1867年)の生まれです。ですので熊楠は江戸時代生まれの人物です。
江戸時代生まれの日本人が英語で論文を書いて『ネイチャー』掲載論文数歴代最多の記録をいまだ保持し続けているということです。
熊楠とはそういうとてつもなくすごい人物です。
神社合祀反対運動、エコロジー
そして、熊楠は学問だけでなく社会的な活動、運動も行いました。神社合祀反対運動というものです。
今から百年ほど前、明治時代の末期、神社を整理統合して1町村に1社だけ、神社は1町村に1社だけにしなさいという神社合祀政策を明治政府は進めました。
合祀。合わせて祀る。神社の統廃合です。潰された神社の森は伐られました。
熊楠の身近なところでもどんどん神社が潰され、森を伐られていきました。
熊楠にとって神社の森は生物研究の重要な拠点でもあったので、神社の森を守ろうと熊楠は神社合祀反対運動に立ち上がりました。
熊楠は神社合祀反対運動の中でエコロギーという言葉を使いました。エコロジーのことです。エコロジーを日本に初めて紹介した人はまた別の人(東京帝国大学教授の三好学という人)ですけれども、エコロジーという言葉を使って自然保護運動を行ったのは熊楠が日本で最初です。
熊楠の頃のエコロジーというのは生態学。生物と生物が相互に影響を与えあう、生物と周りの環境とが相互に影響を与えあう、その関係を研究する学問です。
いまエコロジーといえば生態学のことだけでなく、その生態学的な知識を反映させた、生物多様性とか環境とかに配慮した文化的・社会的・経済的な活動のこともエコロジーといいますけれども、熊楠が使ったエコロジーという言葉には学問としての生態学という意味しかありません。
熊楠が使ったエコロジーという言葉には学問としての意味しかないのですけれども、でも熊楠が行った神社合祀反対運動というのは、活動としてのエコロジーの先駈けであるということはできると思います。
神社合祀は明治末期から大正の初めにかけて行われました。そのときに全国では約20万社あった神社が13万社ほどに減りました。全国的にはおよそ35%の神社が潰されました。全国的には35%という数字なのですけれども、神社合祀の具体的な実施は、それぞれの県の知事に任されたので、県により合祀を激しく行ったり、あまり行わなかったりというのがありました。
現在47都道府県で最も神社が多いのは新潟県で4700社以上の神社があります。新潟県は神社合祀に消極的で、そのために現在、最も神社が多い県となっているということだと思います。それに対して熊野地方を含む和歌山県と三重県では激しい神社合祀が行われました。和歌山県と三重県ではおよそ90%の神社が潰されました。
いま和歌山県の神社の数は440社くらいで、新潟の10分の1以下。三重県は840社くらいで新潟の5分の1以下。和歌山県は全国で沖縄県に次いで2番目に神社が少ない県ですし、三重県は全国で10番目に神社の少ない県です。それはもともと神社が少なかったということではなくて、明治末期に激しい神社合祀が行われたから少なくなったのです。
こうした激しい神社合祀が行われるなかで神社の森を守ろうと戦ったのが南方熊楠です。
トーテミズム
熊楠の名は和歌山県海南市にある藤白神社という神社と関係があります。藤白神社は大阪の天満橋の辺りからスタートする熊野参詣道の道沿いにある神社で、熊野の一の鳥居とされた(熊野の入口とされた)鳥居がかつてありました。
熊楠は和歌山市の生まれですけれども、熊楠が生まれた頃には、藤白神社の神主から名前の1文字を授けられるという習俗がありました。熊野の「熊」、藤白の「藤」、そして藤白神社に神様として祀られている楠にちなんだ「楠」、それらの文字から1文字が子どもに授けられました。
熊楠の場合はとくに「熊」と「楠」と、この2文字を授けられました。「熊野の楠」というのが、熊楠という名前の意味するところです。
熊野地方の神社にはたいがい楠が生えています。楠は熊野の神社を象徴するような木です。熊楠の神社合祀反対運動というのは、まさに「熊野の楠」を守ろうとした戦いでした。
名は体を表すと言いますが、名前はとても大切です。熊楠は楠に特別なつながりを感じていました。
特定の社会集団や個人が特定の動植物と特別なつながりがあるとする、そういう信仰をトーテミズムといいますけれども、トーテミズムは、人間がその特定の動植物を通じて自然とのつながりを結びなおす、そういうものです。自然環境を破壊できる能力を持った人間が自然のなかで好き勝手に自然を破壊しないようにするための知性の働きの1つがトーテミズムです。
そして、またエコロジーも、学問としてのエコロジーも、そして活動としてのエコロジーも、そのような、人間がこの自然の中で自然を破壊しすぎずに生きていくための知性の働きであろうと思います。
世界に不用なものなし
熊楠の自然保護運動というのは神社の森を丸ごと守るというものです。当時は天然記念物についての法律が準備されつつあった時期ですけれども(史蹟名勝天然紀念物保存法は大正8年公布)、日本の天然記念物の考え方というのは、たとえば大きな1本の木とか、珍しい動物とか、そういう特定の個体、特定の生物の種を保護するという、そういうものでした。
熊楠の場合は大きな木だけを守ればいいというのではなく、その下に生える小さな木とか草やその他の小さな生き物とか、すべてを含めて丸ごと守る。特定の個体、特定の種だけを守るのではなく森全体を守るというのが熊楠の自然保護の考え方でした。
日本の天然記念物というのは今でも特定の個体、特定の種の指定が主体になっていますけれども、欧米諸国の場合は、生物種の指定というのはなく、地域を指定します。地域まるごとを天然記念物にする。ですので、熊楠の自然保護はその点では欧米的なやり方をしています。
熊楠は森の中で特に腐葉土の重要性を訴えています。神社の森を掃除するなと言っています。掃除すると腐葉土がなくなって木が枯れてしまう、と。腐葉土がなくなると、植物の根っこと共生して植物にリン酸や窒素を供給する菌根菌、という菌類が死滅して植物は養分を吸収できなくなる、そして木が枯れる。そのように熊楠は言っています。
菌根菌というのはたとえばマツタケなんかがそうです。マツタケは松の根っこと共生して、松に養分を送ります。菌根菌という小さな生き物が大きな木の命を支えています。
世界に不用な物はないと熊楠は言います。多くの菌類やばいきんというのは、人がせっかく作った物を腐らせる、やっかいなものだけれども、もし菌類やばいきんが全くなかったとしたら物がまったく腐らず、世界は死んだ物でふさがってしまって、どうにもこうにもならなくなる。そのように言っています。
大きなものも、小さなものも、やっかいなものも、多様なものを多様なままに守ろうというのが熊楠の自然保護です。
神道
熊楠は日本における自然保護運動の先駆者ではあるんですけれども、守ったのが神社の森ということで、その後の日本の自然保護運動や世界の自然保護運動とは少し違う部分もあるかと思います。
熊楠がロンドンにいたときに神道について英語で書いた論文があります。「The Taboo-System in Japan(日本におけるタブー体系)」というもので、そのなかで熊楠は、神道のことを「日本人の国民性の基礎」であり、「清廉さの第一の要因」であり、「美徳を生み出す唯一の源泉」であり、「文明の高さの直接の起源」であると述べています。
「神社や森、川、山々、岩屋などを心のよりどころとする」そういう信仰が日本人の精神性や文化の中心にあるのだとロンドンにいる熊楠は考えました。
ところがロンドンから帰国してみれば、日本では神社合祀なんてことが始まってしまった。熊楠の身近なところでどんどん神社が潰されていきました。熊楠は怒りを覚えました。神社の破壊というのは自然の破壊であるとともに、日本人の精神性や文化の破壊であると熊楠は考えました。
神社合祀がもたらした問題点
熊楠が神社合祀反対運動のさなかに書いた「神社合祀に関する意見」という文章があります。読んだことがある方、いらっしゃいますか? 熊楠のエコロジーを知るにはぜひ読んでいただきたい文章です。その中で、熊楠は神社合祀がもたらした問題点を8つ挙げています。
1つめは、神社合祀は敬神の念を薄くする。神様を敬う気持ちを弱める。神様に会える場所が破壊されてなくなるんですから当然そうなります。
2つめは、神社合祀は民の融和を妨げる。神社合祀は一町村のなかで、残された神社、潰された神社それぞれの氏子の間に対立を生みます。
3つめは、神社合祀は地方を衰微させる。神社はお祭りなどで地域にお金を回して地域経済を潤していました。神社が潰されればもう二度と地域経済を潤すことはできません。神社合祀は経済的に地方を衰退させます。
4つめは、神社合祀は国民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する。神社の森のなかで得られる清々しさが日本人の精神性をもとなので、神社が破壊されてなくなってしまえば、日本人の精神性や文化も破壊されます。地域独自の風習習俗なども失われます。
5つめは、神社合祀は愛国心を損なう。愛国心のもととなるのが郷土愛です。地域の人たちが心の拠り所としていた神社を破壊しておいて愛国心を持てというのはまるで無理な話です。
6つめは、神社合祀は土地の治安と利益に大きな害がある。神社は人々に慰安を与える場所であり、また火災や津波などの災害時には避難所ともなる場所です。それから神社の森は田畑の害虫を駆除してくれる鳥や獣の住処でもあります。神社が潰されれば地域にとって大きな損害となります。
7つめは、神社合祀は史蹟と古伝を滅却する。神社や神社近辺には遺跡があることが多く、それから古い伝承や古い記録も神社を中心に伝えられてきました。ですので神社が潰されればそれらも失われてしまいます。
8つめは、神社合祀は天然風景と天然記念物を亡滅する。神社の森はその土地固有の天然自然の植生を千年あるいは数百年と残してきた貴重な場所です。それは天然記念物として保護すべき大切なものです。神社合祀はその貴重な天然風景、天然記念物を滅ぼしてしまいます。
以上の8つの問題点のうち直接に自然そのもののことを言っているのは最後の8番目だけです。他はすべて人の心、人の社会のことを言っています。
熊楠の神社合祀反対運動というのは単に自然の保護だけを目的としているのではなく、そこに住む人々の暮らしとか幸せとか地域本来の豊かさとか、そういうものを守るための戦いでもありました。
日本の天然の風景は曼陀羅
この8つの問題点はどれも重要なことですけれども、とくに自然に関わる8つめの「神社合祀は天然風景と天然記念物を亡滅する」ということに関連していうと、熊楠は天然風景のことを「わが国の曼陀羅」であろう、と述べています。日本の天然自然の風景は曼陀羅であると。
日本の天然の風景の中に身を置いていると、自ずと邪念が払われ、仏の悟りの境地をなんとなく感じることができる。そう熊楠は言っています。
神社の森には多様な生物が棲息していて、それらが互いに影響を与えあって、ひとつの森を形成します。その森のあり方は仏の悟りの境地を表現する曼陀羅のようで、だから人は森の中に身を置くと、仏の悟りの境地の一端に触れることができるんだ、と言っています。
曼陀羅にはたくさんの仏様が描かれます。日本の天然の風景が曼陀羅なのは、生物の多様性があるからなのだろうと思います。2〜3種の木しか生えていないような場所は曼陀羅ではなく、悟りの境地にも触れられないのだと思います。
風景を利用して地域の繁栄を計る工夫をせよ
また風景については別のことも言っていて、風景は重要な観光資源になると熊楠は言っています。
熊楠は、田辺の人たちに、
風景は田辺が一番だ。この風景を利用して地域の繁栄を計る工夫をせよ。追々交通が便利になったら必ずこの風景と、そして空気がいちばんの金儲けの種になるんだ、と。この景色と空気で儲ける策を立てよ、と。
そのように田辺の人たちに訴えています。
熊楠が夢見た田辺の未来の姿というのは、地域にある自然や文化的な資産を保全しながら観光資源として活用していく、持続可能性な観光地。そういう未来を熊楠は夢見ました。
いま田辺市は「世界に開かれた質の高い持続可能な観光地」というのを目指しています。それは今から百年ほど前に熊楠が夢見たこの地域の未来です。
熊楠は決して終わった過去の人ではありません。私たちがまだまだ追いつけない、まだまだ先を行っている未来の人だと、未来人だと私は考えています。
熊楠の神社合祀反対運動は結果としては、和歌山県や三重県ではおよそ90%の神社が潰されたということで、結果としては失敗だったかもしれません。けれども、そのときに熊楠が行ったこと、書き記した文章、わずかながらも守ることができた神社の森は熊野地方にとってはもちろん日本にとってもとても貴重な宝物だと思います。
Japaneseecologyを提唱していくというみなさまの取り組みに、熊楠が残してくれたものが活かされることに感謝します。
私の話はとりあえず以上です。ありがとうございます。
(てつ)
2016.9.11 UP
2020.9.20 更新
参考文献