熊野信仰を広めた女性宗教者
熊野信仰を庶民に広めた女性宗教者、熊野比丘尼。
熊野比丘尼は全国各地を巡り歩き、「熊野勧心十界図」の絵解きをしたり、熊野牛玉を配ったりして、熊野権現の慈悲を広めました。
その活動は戦国時代の頃から始まったようですが、熊野信仰が力を失っていくと、熊野比丘尼も零落。江戸時代初期ごろからは歌を歌い、春をひさぐようになったようです。
江戸中期の作家・井原西鶴(いはらさいかく。1642~1693)の浮世草子(うきよぞうし。町人の世態・人情を描いた小説)の中にはいくつか熊野比丘尼の様子が描かれたものがありますので、ご紹介します。
『世間胸算用』巻五
熊野比丘尼は、身の一大事としている地獄極楽の絵図(熊野勧心十界図)を拝ませ、または、息の根の続くほどに流行り歌を歌い、勧進をするけれども、腰にさした一升柄杓に一盃はもらいかねた。
『好色一代男』巻三
今、男盛り二十六の春、酒田という所に初めて着いた。
この浦の景色は、桜は波に映りまことに「花の上漕ぐあまの釣舟」と詠んだのはここだと、お寺の門前から眺めていると、勧進比丘尼(熊野比丘尼のこと)が声を揃えて歌いながらやって来た。
これはと立ち寄ると、かちん染めの布子に黒綸子の二つわり前結びにして、頭はどの国でも同じ風俗である(黒頭巾で頭をつつむ)。
もとは、このような事をする身ではないけれども、いつごろより御寮(おりょう。比丘尼の親方)が遊女同然に相手も定めず、「百文につき二人(一人五十文)」というのがおかしい。
『好色一代女』巻三
さて、川口に西国船の碇を下して古里のかかあを思いやって淋しい波枕(船中の旅寝)をしている人を見かけて、その人に「売色の歌比丘尼はいかが」といって色船(美女をのせた船)がこの港を入り乱れる。艫(とも。船尾)に相当年をとったおやじが座ったまま舵をとって近づく。
比丘尼はだいたい浅黄の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門の中幅帯(ちゅうはばおび)を前結びにして、黒羽二重(くろはぶたえ)の頭がくし(比丘尼は頭を黒い布で巻いていた)、深江(大阪市東成区深江町)のお七という笠作りが作った加賀笠、畦刺(あぜさし)の足袋(木綿糸で刺した足袋)を履かないということはない。
絹の二布(ふたの。腰巻)のすそは短く、みんな同じいでたちをして、文庫に入れてあるのは熊野の牛玉、酢貝(すがい。さざえ科の貝)、耳にやかましい四つ竹(両手に二片ずつ持って鳴らす楽器)小比丘尼(子どもの比丘尼)には定まりの一升柄杓(熊野比丘尼が金品をもらうときに受ける柄杓)、「かんじ~ん」声を長く引っ張り、流行り節を歌い、男の気を取り、他から見るのも構わず、碇泊中の親船(本船)に乗り移り、情事をすませてから銭百文つないださしを袂へ投げ入れるのも風情がある。
あるいは薪をその代金として取り、またはさし鯖(鯖を背割にして塩漬にしたものを二枚ずつ刺したもの)にも代え、同じ流れとはいいながら、見馴れて風情がない。
人の行末は少しも知れないものだ。私もいつということなく、不品行の数をつくして、今惜しい黒髪を剃って、高津の宮の北にあたり、高原といった町に、軒は笹でふいて幽(かすか)なる奥に、比丘尼の稼業に年功を経たお寮(比丘尼の親方)を頼み、勤めても浅ましくなるものだなあ。
雨の日嵐の日にも免除されることなく、こうした尼姿の税として一人当たり白米一升に銭五十(それより年少の子供にも白米五合ずつ)毎日お寮に納めたので、自然といやしくなって、昔はこのようなことはなかったが近年は遊女のようになった。
これもうるわしきは大阪の屋形町まわり、あまりよろしくないのが河内、津の国里々をめぐり、五月八月を恋のさかりとちぎった。
私はどこかに昔の様子も残っているので、川口の船より招かれ、それをかりそめの縁にして、あとは小宿のたわむれ、一夜を三匁すこしの豆板銀で売る。何ほどのことと思うけれど、それが度重なるに従って、間もなく三人とも身代をつぶさせて、あとは知らん顔で小歌節を歌っている。薄情には違いないが、それも当然のこと。
どんな安直な色事でも度重なると嵩があがるもの。その心得をせよ。浮気男よ。わかったか。
(てつ)
2005.6.23 UP
参考文献
- 日本古典文学大系『西鶴集下』岩波書店