伊勢の神様と熊野の神様は同じ神様
平安時代後期の説話集『江談抄(ごうだんしょう)』に収められた伊勢熊野同体説を現代語訳してご紹介します。
『江談抄』は大江匡房(おおえのまさふさ、1041年〜1111年)の談話を集めたもの。大江匡房は平安後期を代表する学者。後三条天皇・白河天皇・堀河天皇の侍読(じどく、「じとう」とも。天皇に仕えて学問を教授した学者)を務めました。熊野詣が盛んになり始める頃の知識人です。
また大江匡房に「熊野三所の本縁(本地仏、神の本体である仏)はどのようなものですか」と問うと、大江匡房は次のように答えられた。
「熊野三所は伊勢太神宮の御身なのだ。云々。本宮ならびに新宮は伊勢太神宮で、那智は別宮の荒祭宮(あらまつりのみや)だ。また伊勢太神宮は救世観音(ぐぜかんのん)の御変身なのだ。云々。このことは民部卿俊明(みんぶきょう・としあき)が談ぜられたところである。云々」
民部卿俊明は民部卿(民政をつかさどる民部省の長官)であった源俊明(みなもとのとしあき)のこと。源俊明は伊勢公卿勅使(天皇の命で伊勢神宮に派遣されて奉幣する高官)を務め、当時の公卿のなかで伊勢について最もよく知るであろう人物です。そのような人物が熊野は伊勢と同じ神様で、その本地仏は救世観音だと言うのでした。伊勢公卿勅使を務めた人物の語った伊勢熊野同体説には非常に重みがあります。
伊勢熊野同体説はその後、後白河上皇が長寛年間(1163年 - 1164年)に伊勢の神様と熊野の神様が同体であるか否か学者に意見を出させた報告書「長寛勘文(ちょうかんかんもん、ちょうかんのかんもん)」の議論によって結局非同体という結論が出ましたが、伊勢熊野同体説は一時期、中央の貴族たちの間でも広く信じられていたようです。
(てつ)
2019.1.31
参考文献
- 新日本古典文学大系32『江談抄 中外抄 富家語』岩波書店