那智山の応照上人の火定
妙法山阿弥陀寺境内には二メートル四方ほどの石の囲いがあります。応照上人という平安時代の法華経行者の火定跡だと伝えられます。
火定とは、生きながらに身を焼き、浄土へ往生することをいい、応照上人の火定が、日本で行われた最初の焼身往生だといわれています。応照上人の火定の有り様は、平安時代中期に書かれた仏教説話集『大日本国法華経験記』の「第九 奈智山応照法師」で記されていますので、現代語訳してご紹介します。
奈智山は那智山。那智山というと那智の滝や熊野那智大社や那智山青岸渡寺のある辺りが思い浮かぶと思いますが、那智山という名前の山はなく、那智の滝を取り巻く大雲取山や烏帽子山、光ヶ峯、妙法山などの山々を総称して那智山といいます。その那智山のなかで第一とされるのが妙法山です。
奈智山の応照法師(現代語訳)
沙門応照は熊野奈智山の住僧である。精進する性質で、怠けることは少しもなかった。法華経を読誦し、修業をなした。仏道を勤求することをその志となし、山林樹下を住処となし、人間と入り交わることを楽しまなかった。法華経を繰り返し読んでいたが、薬王品に至るごとに喜見菩薩が身を焼き臂を燃やしたことを骨髄に刻み、肝胆に徹し、その菩薩の行いに随喜し、恋い慕った。
そしてついに、自分も薬王菩薩のごとくこの身を焼いて諸仏を供養しようと念願を発した。穀物を絶ち、塩も取らず、さらに甘味も食べず、松葉を食事とし、雨水を飲み、もって内外の不法を浄め、焼身の前段階の修行となした。焼身に臨むとき、新しい紙の法服を着、手に香炉を持ち、薪の上に結跏趺坐し、西の方に顔を向けて諸仏を勧請し、願を発して言った。
「私はこの身心をもって法華経を供養し、頭をもって上方の諸仏を供養し、足をもって下方の世尊に奉献いたします。背のほうは東方の仏よ、納受してください。前のほうは西方の仏よ、わたくしを哀れんでお受けください。あるいは胸をもって釈迦大師を供養し、左右の脇をもって多宝世尊に、咽喉をもって阿弥陀如来に奉ります。
あるいは五臓をもって五智如来を供養し、六腑をもって六道の衆生に施し与えます」云々。
言い終わるとすぐに定印を結んで、口には妙法蓮華経を誦し、心には三宝を信じ、そして身体は灰となっても経を誦する声は絶えず、乱れる気配もなかった。煙の匂いは臭わず臭くなく、沈檀香を焚くのに似ていた。微風がしきりに吹き、音楽を奏でるようであった。
火が滅した後も、余光がなお残り、虚空を照らし、山谷は明るく、名も知らぬ、見たこともない姿形の奇妙な鳥たちが数百羽集まってきて、鈴のような声を合わせて鳴きながら辺りを飛んだ。これが日本国最初の焼身である。じかに見た人はもちろん伝え聞いた人も、随喜しない人はいなかった。
(現代語訳終了)
応照上人の火定が行われたとされる石囲い
阿弥陀寺
(てつ)
2016.5.13 UP
2020.9.8 更新
参考文献
- 『本宮町史 文化財編・古代中世史料編』