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雷を捕まえた話

髑髏の舌が腐らずに法華経を唱える話

 和歌山県田辺市秋津町1554にある豊秋津神社(とよあきづじんじゃ)にまつわる話。豊秋津神社は古くは雲ノ森明神社といいました。

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 ある夏の日、激しい雷雨があり、村の方々に落雷の被害が出た。このとき、雲ノ森明神社の森にも雷が落ちた。
 これに激怒した雲ノ森の神様は、地上に落ちてころがっていた雷を捕まえて縛り上げてしまった。
「今後2度とこの里に落ちないと約束するならば放してやるが、さもなければこのまま天には返さない」
 雷は仕方なく「今後2度とこの里には落ちません」と誓約して、やっと天に帰ることができた。それ以来、この里に雷が落ちることはなかった。

 ところが、第二次世界大戦の前後のある年、この里に雷が落ちることがあった。人々はいろいろと取沙汰して、古来続けていた競馬の神事を中止にしたせいであろうとのことで、競馬の神事を再開した。

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 現在では馬もいないでしょうし、競馬の神事はどうしているのでしょうか。そして雷は?

 この話を知ってすぐに思い浮かんだのが、平安時代初期に成立した日本最古の仏教説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』上巻の第一話。

雷(いかづち)を捉(とら)へし縁(現代語訳)

 少子部(ちいさこべ)の栖軽(すがる)は、泊瀬の朝倉の宮で23年の間、天下を治めた雄略天皇(大泊瀬稚武の天皇〔おおわかたけのすめらみこと〕と申す)の護衛の武官で、腹心の従者であった。天皇が磐余の宮にお住まいになられたときに、天皇が后と大安殿で寝て婚合しなさっているときに、栖軽が知らずに参り入ってしまった。天皇は恥ずかしくなって行為を止めた。

 ちょうどそのとき、空で雷が鳴った。そこで天皇は栖軽に「汝は雷をお迎えして来られるか」とおっしゃった。
 栖軽は答えて「お迎えして参りましょう」と申し上げる。 天皇は「ならばお迎えして来い」 とお命じになった。栖軽は勅命を奉って宮殿から退出した。

 緋色のかずら(※髪飾り)を額に付け、赤い旗を付けた鉾を捧げて、馬に乗り、阿倍の山田の前の道から豊浦寺の前の道を通って走って行った。軽の諸越(もろこし)の町中に着くと、叫んで「天の雷神よ、天皇がお呼び奉る」と申し上げた。そして、ここから馬を返して走りながら「雷神といえども、どうして天皇のお呼びを聞かないことができようか」と申し上げた。

 走って帰るときに豊浦寺と飯岡との間に、雷神が落ちていた。栖軽はこれを見て神官を呼び、雷神を輿に乗せて宮殿に運び、天皇に「雷神をお迎えして参りました」と申し上げた。そのとき、雷は光を放って照り輝いた。天皇はこれを見て恐れ、雷にたくさんの供え物を奉って、落ちた所に返させたという。そこを今でも雷の岡(いかづちのおか)と呼ぶ。古京(※飛鳥の都)の少治田〔おはりだ〕の宮の北にあるという。

 その後、栖軽は死んだ。天皇は、勅を下して遺体を七日七夜お留め置きになって、彼の忠信を偲び、雷の落ちた同じ所に彼の墓をお作りになった。彼の栄誉を長く讃えるために碑文の柱を立て、そこに「雷を捕まえた栖軽の墓である」と記した。

 これを雷が憎み恨んで鳴り落ち、碑文の柱を蹴り踏み付けた。ところが、雷はその柱の裂けた間に挟まれて捕らえられてしまった。天皇はこれをお聞きになって、雷を放したので、雷は死なずに済んだが、雷はほうけて七日七夜地上にとどまっていた。

 天皇は勅命を下して、再び碑文の柱を立てさせ、「生きているときも死んでからも雷を捕まえた栖軽の墓である」と記させた。いわゆる古京のとき、そこを雷の岡と名づけた話の起こりは、このようなことである。

 (現代語訳終了)

天と地の交合

 以上が日本最古の仏教説話集の第1話。これは仏教の因果応報譚ではなく、神話的なお話。
 雷は天と地の交合であり、それによって稲穂が実ると昔の日本人は考えました。天皇と后の行為は農耕の豊穣を祈るための儀式であったとも考えられます。

(てつ)

2009.8.12 UP
2020.4.19 更新

参考文献