平安時代前期に熊野の住民・三善清行が勧請
刈谷市築地町3丁目24-1?
祭神
邪那岐命 伊邪那美命 家都御子命 速玉之男命 事解之男命
御由緒
社伝に宇多天皇の寛平年間(889~98)、熊野の住民三善清行(みよしきよゆき)が、熊野三神を奉じ佐久嶋を経て、この地に至り御舟塚より上陸し糟目天神と合祀し、熊野三社と称して清行の子孫代々奉仕した。(愛知県神社名鑑より)
当時、この地に孫彦主人王が邪那岐命、伊邪那美命の二神を祀り、糟目天神とし、当地を糟目の郷と称していた。その後、築地と改名する。
(境内建立の由緒から引用)
境内の由緒記などによると、千年前に熊野三社の分霊が舟でもたらされたとあり、近くの逢妻川の存在に気づく。
ここから約4キロ上流には、中世東海道(鎌倉街道)の遺構があり、在原業平が伊勢物語で八橋(川が蜘蛛の巣状に分かれ橋を八わたせる)地名の由来にふれており、下流の当地は、熊野三社が海経由で伝承されたとの伝説にも、
かなり理解できる歴史でした。
後でネットで調べたところ、神社周辺は「歴史の小径」として散策コースが設定されており、パンフによると神社前は応神天皇の4世孫彦主人王(ひこうしおう、継体天皇の父)が松に舟をつないで上陸した場所であり、後に熊野の住民 三善清行も初めて上陸した場所であり、名所「舟塚」と呼称され「熊野社御神体上陸之地」と記された石柱が建立されていると解説されており、紹介できないのが残念です。
市道から鳥居を望む。境内は土盛されており、拝殿・本殿は見えません。
鳥居の右側にある社標です。
土盛りされた境内の縁にあるため、鳥居と並んだ写真は撮れませんでした。
鳥居の西側に設置されている神社由緒です。
(河合さん)
No.1084
2009.9.30 UP
2021.6.29 更新