大治町は、庄内川及び新川(江戸時代開削された人工河川)をはさんで名古屋市中川区と隣接する町です。
佐屋街道が十二所神社の南から西に回り込んでおり、江戸時代の幹線道路に面した位置にあります。
神社には歴史がありますが、今は背景に大きなマンションが三棟も建ち、神社の雰囲気が薄く感じるのは時代の流れかもしれませんね。
参考
佐屋街道は、東海道の熱田宿から桑名宿を連絡する七里の渡しが海路であるため、常時利用できないとか、安全のため開設された脇街道で、熱田宿から佐屋宿(津島の南に位置する)を連絡していました。嘉永11年(1634)の設置ですが、大阪夏の陣(慶長20年、1615)の時に徳川家康が通行したとも言われています。
十二所神社の社標と鳥居。撮影した位置が佐屋街道になります。
約300メートル先に拝殿・本殿がありますが、マンションしか見えません。
拝殿の「十二所社」と「七所神社」の扁額。マンションが迫っています。
ここから西50mの位置に佐屋街道が通っていました。
佐屋街道に設置された高札場跡。
御祭神
十二所権現に七社大明神
御由緒
大治町民俗誌(下巻)は、「尾張洵行記」(寛政年代1812)によると勧請は大宝3年寅年(703)、再建は寛永3寅年(1626)とあります。
「尾張洵行記」は江戸時代の伝聞や風俗を書きとめた書物ですが、日本初の法令である大宝律了が制定された年代の勧請は少し疑問と思われます。
その訳は私見ですが、奈良・平安時代の海道は陸側2キロ程の位置にあり、それ以前は人が定住できる土地ではない(海である)と思われることです。
寛永年代の再建が、実質的な勧請年次と置きなおすと地形の変化からも分かりやすく思います。
(河合さん)
No.986
2009.6.23 UP
2022.2.25 更新
参考文献
- 『大治町民俗誌』