牛久保三社のひとつ、疫病除けに勧請されたと伝わる熊野神社
東三河の表玄関・豊橋駅からJR飯田線に乗り、四つ目の駅が牛久保駅(愛知県豊川市牛久保町)である。牛久保駅の手前、左手に神社が見える。長山熊野神社である。右手の杜は、弁天堂の境内である。
熊野神社前から牛久保駅方面を写したもの。奥に見えるのが、牛久保駅ホーム、左手の杜が熊野神社、右手の杜が弁天堂の境内。
JR飯田線越しに熊野神社を撮ったもの 。
拝殿右手の柏の木は、牧野家の家紋「三つ柏」にちなむものである。
拝殿の軒下にかかる金的中の奉納額。三河では「民、百姓を問わず、弓の携帯を許す」の元康(徳川家康)の『許可状』が出されており、祭礼において弓が盛んに行われた。享保一三(一七二八)年と当所住・陶山の銘が見える奉納額。
御由緒
牛久保は、戦国時代、牧野家の城下町として栄え、JR牛久保駅南には、牛久保城跡の碑が残る。
牧野氏は、家康の関東移封に従い、常州笠間藩、越後長岡藩主として明治を迎える。
牧野氏が牛久保在住の頃、牛久保八幡社(当時は、若宮殿と呼ばれた。豊川市牛久保町)、天王社(豊川市南大通、当時の鎮座地は豊川市中条町大道)、長山熊野権現(豊川市下長山町)を牛久保三社として崇敬していた。
長山熊野神社は、元文元(一七三六)年に現在地に遷座している。このときの記録に、「乾の台地に遷す」とある。
遷座以前の縁起には、「欽明の丙寅の歳、天下に疫病がはやり、多くの死者が出た。このとき、村中に怪異が三つおきた。ひとつは、社内の大木の梢に三光があった。二つ目は、花を一枝持った神人が現れ、『さきにほふ ことしのはなを なかめみて たみのくるしみ そらにしらるる』と歌を詠んだ。三つ目は、村の童子が、神がかりし、『吾は、紀州牟呂郡熊野本宮なり、疫病を除き、村人を助けよとの神託を得た。吾はここに長く留まるから祭れ』といったとする」、これがこの地に熊野権現が祭られたいわれだと伝える。
一方、元禄一〇(一六九七)年頃成立した「牛窪記」を牛久保の人・中神善九郎行忠(生年不詳?一七一一)が加筆訂正した「牛窪密談紀」は、「崇神天皇の時代に紀州の牛間戸という湊から徐氏古座侍郎が舟を泛べ、三河国の御津(宝飯郡御津町)あるいは、澳の六本松(場所不明)というところに着き、本野ヶ原にある常寒(とこさぶ)長山の里(豊川市下長山町)に熊野権現を勧請した。徐氏は、常寒長山の里に住み、一粒の種で百倍もの作物をなして館を建てた。周囲の人は、徐氏を尊敬した。長山の神(熊野権現)は、霊験あらたかであり、『常に天地長久を護り給う』ゆえ、三河国宝飯郡牛窪郷を常寒と呼ぶようになった」と記す。
一般に、この地方に、熊野神が勧請されたのは、平安末頃といわれる。平安時代に国司が月次に国内の神々を巡拝する際に用いたリストに「国内神名帳」がある。「三河国内神名帳」には、長山熊野権現の名は見えない。縁起及び「牛窪密談記」は、欽明あるいは崇神の頃に勧請したというが、おそらく、鎌倉以降のことと考えられる。なお、牛久保八幡社(若宮殿)は、神名帳に三河一宮砥鹿神社より上位に記載されている。
弁天堂
長山熊野神社は、元文元(一七三六)年に現在地に遷座している。このときの記録は、「乾の台地に遷す」とすることから、それ以前は、巽の方角にあったことになる。JR飯田線の南側は段丘崖を形成し、崖下には、弁天堂=市杵島姫神社が祭られている。段丘崖を水源とし、かつては、池になっており、その池に浮かぶ島に弁天堂が建立されている。
延宝四(一六七六)年、弁天池を作り、あふれ出た水を灌漑に利用したといわれる。
今は水がなく、空池となった弁天池、木が茂っているところが、島になっており、弁天堂、竜神社が建立されている。
池に浮かぶ島に建立されている弁天堂。
弁天堂の向かって左に鎮座する竜神社。
今は枯れているが、弁天池の水源に祭られる水神社。
弁天堂境内の国指定天然記念物「牛久保のナギ」。
しかし、当社の由来を記した『弁才天縁起』は、「その昔、熊野神社境内に弁財天の社宇があったが、いつのまにか社宇もなくなり、田地と化していたところ、子の病気平癒を弁財天に祈念していた母親の夢枕に弁財天が立ち、社宇を建立せよとのお告げがあった」と記す。
また、牛久保、長山あたりは、『和名抄』の「宮島郷」とされる。安芸の宮島には、厳島神社が鎮座する。祭神は、弁天堂と同じく、市杵島姫である。「宮島郷」は、弁天堂にちなむものと思われる。となれば、長山熊野神社の地には、もともと、弁財天社が祭られており、その後、熊野権現が勧請されたと考えられるのである。
(柴田晴廣さん)
No.244
2004.9.2 UP
2022.3.28 更新