『後漢書』に記された奴国の中心地と言われる土地にある熊野神社
熊野神社のある丘陵地一帯は遺跡が密集している土地なのだそうです。
熊野神社鳥居
拝殿から本殿
右奥は一段高い公園になっています。
御本殿(隣の公園から撮影)
春日市岡本の熊野神社、現地案内板
熊野神社
御祭神
伊弉諾尊 いざなぎのみこと
伊弉冉尊 いざなみのみこと御祭礼
元旦祭 1月1日
春祭 4月15日
苗代祭 5月15日
祇園祭 7月15日
夏祭 8月7日
秋祭 10月17日 (※ 祭典は協議の上、日曜日に実施)年表
1449年~1451年 宝徳年間 岡本の先人此の地を選び、祖神を奉祀。
1615年~1623年 元和年間 清三郎、清四郎、金六、大作の4名が本殿を建立。
1712年 正徳2年 社殿再建時、棟木である萬歳棟に以上を記録保存。
(以上、吉村家古文書)
1686年 貞和5年 土製の狛犬一対、須玖(すぐ)村邑清五郎奉納。(筑陽記)
土製の狛犬
(※ 上は、近くの『春日市奴国の丘歴史資料館』にて撮影させて頂いた、歴史年表中の熊野神社・土製狛犬の写真です。歴史資料館の年表の方には、1688年、吉村清五郎、熊野神社へ狛犬奉納と記されていました。)1705年 安永2年 元禄元年 熊野権現社、須玖村枝村岡本に在り。(筑陽記)
1710年 宝永7年 氏子中、絵馬奉納。 □永七祀
1786年 天明6年 氏子中、石鳥居奉納。 同年2月吉祥日
1793年~1798年 寛政5年~10年 熊野権現社・社殿・拝殿・鳥居・岡本八戸 産霊・拝殿は山下に在り鎮座不詳。(筑前国続風土記付録)
1789年~1801年 寛政年間 百姓和作、矛を鋳る型の石を掘り出す。(筑前続風土記拾遺)
銅矛の鋳型の写真(国指定重要文化財)(現地案内板より)
(※ 別の案内板によりますと、江戸時代に近くの畑で発見された上の銅矛の鋳型は、熊野神社の宝物として大切にされてきたそうです。)1815年 文化12年 神額奉納 庄屋 武末種安。
1815年 文化12年 石灯籠奉納 熊野宮
1815年~1863年 文化12年 文久年間 熊野権現岡本に在り、岡本・野添・新村(沖)等の産神なり。祭礼9月7日 奉祀 博多 天野氏。(筑前続風土記拾遺)
1863年 文久3年 熊野宮、岡本村産神 祭礼9月7日 祭神 伊弉諾尊 伊弉冉尊 (筑前続風土記付録)(神社再調子書上帳)
1872年~1877年 明治5年~10年 熊野神社、須玖枝村岡本の産神なり。(福岡県地理全誌)平成4年10月吉日 熊野神社氏子中
(以上、現地案内板より)
熊野神社の祭典の案内板
12月31日 大晦日の大祓 (厄払い祭)
御由緒案内板には記されていなかった祭典です。
奴国の中心地と言われる須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)
須玖岡本遺跡の周辺地図(右下が熊野神社)
須玖岡本遺跡 (現地案内板より)
春日市の中央を南北に走り福岡平野に突出した春日丘陵上には、弥生時代の貴重な遺跡が密集し、須玖(すぐ)岡本遺跡は、この丘陵の北端に位置しています。
明治32年、大石の下より甕棺(かめかん)が発見され、その内外から前漢鏡(ぜんかんきょう)30面、銅剣、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)、ガラス壁(へき)、ガラス勾玉(まがたま)など多数の副葬品が出土しました。
その後、発掘調査も数回行われ、遺跡の内容も徐々に明らかになりつつあります。
須玖岡本遺跡は、弥生時代中頃の極めて有力な集団の墓地と考えられ、大石下の甕棺墓は、奴国(なこく)の王墓に推定されています。
また、周辺の遺跡から出土している多量の青銅器鋳型は、当地周辺が弥生時代に文化の中心地として栄えていたことを物語っています。
甕棺墓出土状態(昭和61年 1986年) (現地案内板より)
奴国王が葬られた様子を再現したところ(現地案内板より)
昭和52年の調査で発見されたガラスの首飾り(現地案内板より)
熊野神社境内の大木と手水鉢
写真では大きさが上手く伝わりませんが、かなり立派な木でした。
拝殿側の石鳥居
熊野神社隣の公園に設置されていた、オオバヤドリギの案内板
1977年8月11日、市天然記念物指定と書かれていました。
私は熊野神社側から先に訪れましたので後から気がつきましたが、神社林には貴重な植物が育っているようです。
なお、近くには『奴国の丘歴史公園』と『春日市奴国の丘歴史資料館』(入場無料)があります(同敷地内)。
(瀬音さん)
No.1786
No.17
No.17の旧春日市大字須玖字岡本山781の熊野神社と同一のため
No.1786は欠番としました。
2014.1.27 UP
2020.5.24 更新
参考文献