神功皇后が勧請した熊野神社
御祭神:伊弉冊尊(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事觧男命(ことさかおのみこと)
由来
(二つの石碑を現代文のように約して、Wikipediaなどを斜め読みして、年代や当時の出来事を補足してみました。
当然ですが、多々伝説があるでしょうし、ネットの情報を元にしていますので誤りがあるかもしれません。もし、何かありましたらご指摘ください。再調査に行きます。)
神功皇后(じんぐうこうごう:170-269年)が朝鮮半島に出兵し、新羅が降伏した後、百済、高句麗も朝貢を約した(三韓征伐)。
畿内への帰路、現在の福岡県糟屋郡宇美町にて、応神天皇(八幡宮に祭られている)を出産した。
その後、現在の福岡県北九州市八幡西区下上津役(しもこうじゃく)にて、次の皇位が応神天皇になる事を恐れた異母兄弟の香坂皇子、忍熊皇子の二人が反乱を起こしたことを聞いた。
幼い応神天皇を紀伊国に潜行させるにあたり、自分自身でその地に祭壇を設けて、熊野三山の大神を祭り、幼帝の安泰を祈られた斎庭に社殿を建立したことが熊野神社の創始である。
多くの年月にわたり、幾度も兵火に罹るが、神田が20ヘクタールあまりあり、祭事を厳かに行ってきた。
室町時代の「天文」という元号の期間(1532-1555年)に、竹尾城(現在の北九州市八幡西区と八幡東区の境界である権現山の、西側のふもとの丘の上にあった)の城主の麻生左衛門が、居城の丘の上から西南方向に約200mほどの距離の上上津役(かみこうじゃく、現在の熊野神社の場所)に遷座した。
しかし、社殿は永禄十年(1567年)に兵火により消失した。
関が原の戦い(1600年)で功績のあった小早川秀秋が、筑前国(現在の福岡県西部、熊野神社の場所を含む)から岡山藩に移封となり、代わって豊前国(現在の福岡県東部~大分県北部)の領主だった黒田長政が福岡藩藩主となった。
熊野神社は、藩主より、遠賀郡と鞍手郡(現在の福岡県遠賀郡、鞍手郡を中心として、もっと広かったらしい)の祈願社と定められ、国土安全の祭事を執行してきた。
今の神殿は、寛永17年(1640年)に再建されたものである。
その年は、江戸時代初期に起こった最大の飢饉である、寛永の大飢饉が起こった期間中である。
島原の乱が治まったものの、九州で発生した牛疫が西日本に広がり、牛の大量死をもたらした。
北海道では駒ヶ岳が噴火し、それに先駆けた大規模な山体崩壊が発生、大量の土砂が内浦湾に流れ込み、大津波を発生させた。
降灰の影響により、青森県西部で凶作となり、その後1643年にかけて飢死者は増大し、三都への人口流入が始まった。
その年に、井上周防之房(筑前入国の後、黒崎城を築いた。城跡はJR黒埼駅から北東方向に1kmほどの埋立地の中の城山緑地公園)が、祈願のため頭山勘左衛門正利に再建させたものである。
その後、修理を重ね、現代になり、たまたま熊野神社の社地が北九州都市高速道路4号線(北九州直方道路)の用地にかかった。
その補償をもって社殿幣殿の改築社務所手水舎の新設旧拝殿の移築境内整備等の工事を行った(昭和52年(1977年))。
現在、熊野神社の東の山側には、熊野トンネルと名づけられたトンネルが掘られ、その中を高速道路が通っている。
八咫烏
境内社
石碑(1)の原文:
一部読めなかった文字を当てたり、現在の漢字にできない文字もあります。
神功皇后三韓を征し給い帰朝の途次下上津役の里御迎にて 昭和四十一年十月 熊野神社奉賛会 |
石碑(2)
熊野神社御造營記念 昭和五十二年七月竣工 當社は神功皇后熊野三山の大神を招請された、下上津役御迎の地より |
(大門さん)
No.1445
2011.4.26 UP
2019.12.7 更新