09/6/23
たまたま通りかかって発見した熊野神社、地図に記載されていますが、非常に小さな社です。
中町の図書館で町誌を閲覧したら権現社とのみ記載があった、おそらく熊野権現の意でしょうか。
県道脇の非常に小さな社でした、地図に記載がある事が不思議な感じがしました。
兵庫県の神社庁のウェブサイトにも登録が無い様子です。
比較的新しい碑には熊野神社と彫られています。
中町の町誌(昭和26年)を閲覧したら、古い時代には権現とされ近世の記録には権現社となっていましたのでいつの時代にか熊野権現が祀られたのでしょうか? 単に音だけが熊野かもしれません。
後記
後日加西市の図書館に行って地誌を眺めていたらこの神社についての面白い記述を見つけましたので原文のまま転記しますね。
加西市の図書館は採光の具合と蔵書の豊富さで重宝しました。
あの無冠の民俗学者:赤松啓介大先生の出身地だけに著作が多くてそちらの閲覧に時間が足りませんでした。
安田神社 東安田字北西山704番地ノ42
以下神社由緒と明治41年に近辺の八社を合祀した際の赫々の住所:神社名:祭神の記載などがつらつらと書かれていて、↓ママ
内熊野神社は伯耆熊野の士、鈴木伝内、天正年代豊臣秀吉と戦い敗れてこの地に来たり
土地を開墾土着したるを奉祀せるなりと伝え延宝検地境内一畝歩除地となっている。
いやはや、すごい話ですね。秀吉と戦い・・・って、兵糧攻めで有名な鳥取城攻めのことでしょうか?
鈴木さん・・播州峠を越えて、杉原川を下ってはるばるここまでお逃げになった。
無事土着(生き残った)できた事を神さんに感謝して祀ったのでしょうね。
またこじつけになりますが(妄想と言うかも)因州で17世紀に美濃から流れてきた浪人を看病して和紙の製法を教わったと言われている家の苗字は鈴木家(因州和紙の製造者)なんですよこれが。
製法を教わっても素人がいきなり製紙を生業として起こせないでしょうから、古い時代から製紙にかかわっていた家なのではないでしょうか?
出雲圏と播磨圏は古くから人物が行き来していた様子があるので、鈴木伝内さんと因州和紙製造の鈴木家の関連があるとすれば、播州峠を越えた杉原辺りの様子を良く知っていたか製紙に係る人の伝を頼って逃げてきたのかも知れませんね。
(romiさん)
No.996
2009.7.4 UP
2022.9.9 更新