養老2年(718年)に熊野本宮から室根山に勧請
室根神社大祭の御神馬への豆献上
(旧東磐井郡室根村折壁字室根山2)
国重要無形民俗文化財・室根神社大祭
雑学 室根神社と室根大祭、室根山の歴史
室根村教育委員会
社会教育課 千葉 栄一
室根神社の勧請
今から1、285年前(養老2年、西暦718年)に和歌山県本宮町に祀られてある熊野本宮大社の分霊を祀った。
なぜ熊野神を勧請(分霊を移し祀ること)したのか
当時の日本は、701年(大宝元年)大宝律令(全国を支配する法律)」がつくられる。奈良に都を置き、貴族が政権をもち優雅な暮らしをする一方、戸籍が作られ、農民は国から農地を与えられ、面積に応じた米や、絹、麻の供出、労働、兵役の義務など重い負担のため苦しい生活を送っていた。
しかし東北地方までは、まだ国の権力がおよばず、肥沃で広大な土地と産物を得るために、度々朝廷軍を送り込み、武力を持って統制をはかったが、蝦夷といわれる原住民の勢力が強く、思うような成果がでなかった。
そこで、神のご加護により、征伐しようと、当時御利益日本一と言われていた熊野神をこの地に祀り、蝦夷征伐の祈願所とすることとした。
(室根神社は、在郷の神として郷民に勧請されたのではなく、天皇の許可を得て、国の役人が携わった国家事業であった。)
熊野神の勧請を朝廷に願い出、その命を受けた紀伊の国の役人ら数百人で船団を組み、5ヶ月もかかって、本吉郡唐桑町に着いた、
唐桑の仮宮に安置し、勧請地を祈祷したところ、「磐井郡鬼頭山(今の室根山)は、往古日本武尊が鬼神を征服し、はじめて皇業を行われし地なれば、この峯に鎮座して、天下長久を守り人民を利益せん」とお告げがあった。
それから、行列をつくり、鬼頭山をめざした。
熊野神が鬼頭山に勧請(旧暦九月十九日)されて、牟婁峯山と改められた。
(室根神社史実録による)
室根大祭の開催
勧請された養老2年は、旧暦閏年の翌年だったことから、祭年を旧暦閏年の翌年九月十九日とした。
今は、会社等に従事する人が大半のため平成11年の祭から、日を旧暦九月十九日付近の日曜日に改められて開催されている。
祭りにおける特徴は、神役と呼ばれる方々で構成され、それは熊野勧請のとき関わったとされるその子孫が世襲の奉仕で伝承してきている。
祭りには、全体の指揮をとる人や組織はなく、大祭年になるとそれぞれの神役が個々に祭りの準備をし、祭り日には、それぞれが恒例の時刻に集合して一つの祭りとなる。
室根山の遍歴
室根山に熊野本宮が勧請され、蝦夷征伐の祈願所としての存在は大きなものであった。
室根神社史実録によると西暦801年に坂上田村麻呂が室根神社の参拝をしているが、この年代はアテルイが投降した年と一致しており、蝦夷征伐満願成就の参拝かと推される。
「室根神社史実録」「胆沢城とアテルイ」
西暦850年頃には、仏教が盛んになり室根山に天台宗「最澄」の弟子、慈覚大師が一大霊場を作り上げた。四方に天台宗4寺、院司48院、88坊の堂塔寺舎が建立された。それから400年間、室根山の天台宗大霊場は、朝廷までもの信仰を集めた。
1260年鎌倉幕府の執権として将軍を補佐していた北條時頼公が出家し最明寺入道となり「公民の邪正を分明にしようがために」と諸国行脚し奥州諸寺を巡視した際、松島の寺にて失礼があったこと共に、奥州天台は、仏教の教義に反し、不正の多かったことを怒り、「奥州天台宗寺院廃滅令」を発令し、ことごとく焼却した。
その際に、室根山の寺院も難を逃れることは出来ず壊滅した。「室根神社史実録による」(この件について別紙「北條時頼」調査あり)
1313年、この地の領主であった、葛西氏は、室根神社(本宮)の再興にかかり、その際、熊野三権現(熊野本宮大社、熊野速玉大社(新宮)、那智大社)のあるべきところ本宮のみにして、新宮の御社なきことは編頗なりとし、大原村新山(現在の大東町大原)に勧請してあったのを移し祀ったのが現在の新宮である。
その後、野火によって7回ほど焼失したが、その都度再建された。その中には、1692年、伊達綱村も本宮再建を行っている。最近では、明治7年に焼失し、明治12年に郡内からも資金を募り再建された。(室根神社史実録による)
神社に梵鐘?
本来梵鐘は、寺院に見られる物であるが、室根神社境内にもある。奈良時代から仏教が盛んになり、神と仏の信仰の融合調和を図るため神仏混合の時代があった、室根神社本宮の本地(祀られた仏)は十一面観音、新宮は聖観音とされた。
社殿にも寺院としての建築様式が見られる。新宮社殿は屋根、間取りがお堂特有の宝(方)形造である。本宮社殿は、明治の火災により再建されたが、間取が3間四方の宝(方)形造が見られる。
また、先に述べた一山天台宗の時代もあり、室根神社も寺院的要素が高く、梵鐘が寄進されても不思議なことではない。
梵鐘の寄進は1636年(伊達政宗の時代)に行われたが、1942年(昭和18年)に戦争のための金属供出となった。現在の鐘楼は1976年(昭和51年)605名からの献納によるものである。
室根山天台宗壊滅について
北条時頼について調べたところ
廻国伝説でお馴染みの、水戸黄門と同様全国各地を歩き、不正を暴く伝えが数多く残っている。その中で、日本史学者の豊田武氏は松島の件について次のように述べている
豊田武氏記 北条時頼抜粋
松島の瑞巌寺は、もとは天台宗で、円(延)福寺といった。この寺が禅寺(現在は臨済宗)になったのは、北条時頼がこの寺を訪れてからあとのことであるという。『天台記』によると、宝治二(1248)年四月十四日、この寺で山王七社の祭礼が執行されたとき、出家して東国修行のついでにこの地に着いた時頼が、祭礼の舞楽をみて、興に乗り、思わず大声を発した。衆徒の普賢堂閣円がこれを怒り、他の衆徒も同調したため、殺されそうになったが、ようやくゆるされ、岩洞にはいって休息中、禅僧の法身(ほっしん)と会った。帰国してのち、時頼は三浦小次郎義成に一千の軍兵をつけて寺を焼き、正元年間(1259-60)、法身和尚を延福寺の住職としたという。
この『天台記』は文明元(1470)年松島藩重(満重の誤りか)の写しといわれ、その内容はもちろん信ずるに足りないが、こうした廻国伝説がこの寺に伝わり、しかも宝治合戦の年をこれにあてているのは興味深いことである。また別本『松島諸勝記』には、この年を正元・文応のころとし、雲水の身としてこの地を訪れた時頼が、宿をことわられて傍の岩窟にはいったところ、ここに老僧法身が安座していたとしている。『松島町史』の編者は、『天台記』の説を誤りとし、正元・文応の間の説をよしとしているが、廻国伝説としては宝治の方が面白い。松島の地はおそらく三浦氏の所領であり、三浦氏が宝治合戦にほろぼされて、北条氏の得宗領となったのであろう。もっとも時頼方についた三浦の一族もあった。『天台記』にみえる三浦小次郎義成もその一人であったのであろう。
豊田武 記より
また、東北各地に、室根山天台宗壊滅と同様に、全盛な寺院壊滅の伝えがあり、その原因は僧侶の悪を滅ぼすための行為としてである。
(詳細別紙 北條時頼参照)
慈覚大師は室根山の天台宗(850年)と時を同じくして、中尊寺、毛越寺の開山も行われている。又、その10年後には山寺(立石寺)を開山している。
1260年、(開山から410年後)奥州天台宗壊滅命令で、室根山天台宗が壊滅状態に至ったが、同じ天台宗の中尊寺、毛越寺について「壊滅令」の記録は見あたらない。
この時代の平泉は、藤原氏の滅亡(1189年)から70年後であり、中尊寺、毛越寺とも全盛期の面影はないほどに廃れていたからであろう。
もし、このことが無かったなら、室根山は、山形県山寺を凌ぐ霊山として栄えていたかもしれない。非常に残念なことである。
(多分、奥州天台宗の勢力が鎌倉幕府を脅かすほどのものがあり、それを恐れた幕府が不正を理由に壊滅に追いやったのかも?)
南流神社視察
南流神社に見られる寺院的要素
南流神社は、そもそも南流山観世音寺と言われ、お寺であった。明治元年の神仏分離令により南流神社となる。
社殿は宝(方)行造りでお堂の作りとなっている。(3間×3間)又、拝殿正面の長押?(呼び方が適切かは不明)にキリーク(梵語で阿弥陀如来) が刻まれているので是非拝見。
「板碑などに梵字をあてて、一定の仏菩薩を表す、各仏を表す梵字あり」
木造聖観音立像(県有形文化財指定)
平安時代後期の作品で県有形文化財指定になっている。
観音様って男?それとも女?
よく聞かれる質問。 男に見える観音様もあるし、女に見える観音様もあるし、私もどっちだろう?って思いました。み仏の世界では性は無いそうです。が…・
観音様は三十三化身し(三十三観音とは別です)、現れるとのことから、男で現れることもあるし、女で現れることもある。
ちなみにインドの古代観音様は、明らかに男と解るお顔立ちと体型である。(日本仏教で年代とともにで温和、柔和な顔立ちに変化)(仏師による芸術の世界か)
菩薩(観音)と如来の違い
菩薩 修行中のお姿、如来に達する前。特徴 冠等装飾品あり、左肩から右脇にかけて条はくをかける。
身近には 聖観音菩薩、十一面観音菩薩、千手観音菩薩、馬頭観音菩薩(総称お 観音様)、文殊菩薩(三人よれば・・)弥勒菩薩(お弥勒様)地蔵菩薩(お地蔵様)等々
如来 仏の中で最高位に達した存在、悟りを開いた姿
特徴 装飾品を身に付けない。衲衣だけをまとう。髪は「らほつ」小さくカール
身近には 釈迦如来(お釈迦様)、薬師如来(お薬師様)、阿弥陀如来 など
ついでに、その他仏像について
不動明王等は明王と称す。また七福神や弘法・聖徳・太子、権現、上人などは天部と称す。
(千葉さん)
No.170
2003.12.15 UP
2020.5.26 更新
参考文献
- 「仏像の見方」
- 「仏像巡礼事典」
- 「歴史散歩事典」
- 「南流神社由来記」
- 「室根神社史実録」
- 「HP北条時頼」
- 「中学生の歴史」