薩摩国の戦国大名・島津義久が勧請した熊野神社
(旧姶良郡隼人町真孝)
この神社は、たまたま前を通りかかったとき、鳥居の両側に石造の仁王像があるのを見かけたので訪れた。
ところどころ字のペンキが剥落して読めなかった境内の看板を引用する。
熊野神社
御祭神 事解男神、伊弉諾尊、速玉男神
文禄四年、島津義久公、富隈城在城の時ご勧請に因り社頭御建立【3字?剥落】惣社として御崇【3字?剥落】御尊敬他に異なるその後寛永【2字?剥落】龍伯御姫様御再興遊ばさる。然るに寛永の年類火にて炎上、再度、修復し、昭和二十九年四月に改築、現在に至る。
本殿
仁王像については何も触れられていないが、熊野信仰は神仏習合色が濃いので、かつての当社には神宮寺があったのではないか。その場合、この仁王像はその寺の門を守っていたのだが、明治初年の廃仏毀釈の際、寺院が廃されて仁王像だけ残った、と言うようなことが考えられる。
それはともかく、この仁王像はローカルな味わいがあって良い。特に左側の石像は、顔つきが上野公園にある西郷隆盛の銅像にちょっと似ている気がする(そう言えば、右半身はポーズも同じだ。)。
が、西郷さんと言えば、当社の鎮座する隼人町内には、彼や坂本龍馬が湯治に訪れた日当温泉など、維新の英傑にゆかりのある場所がのこっている。
また、熊野神社は、反乱を鎮圧された隼人たちの霊を鎮めるために祀られたとも言われる隼人塚に近く、隣の国分町内には隼人たちが最期まで朝廷軍に対し抵抗した、石城・比売城の城址がある。さらに、島津義久は文禄四年から慶長九年まで、富隈城に居城したが、熊野神社はこの城の鎮守として創建されたことが、看板の由緒からうかがえる。
富隈城は、秀吉の島津征伐に破れた義久が、上をはばかって謹慎の意を表した隠居城といわれるが、その後、彼はここを出て鶴舞城に移り、慶長十六年に亡くなるまで英明な領主として、薩摩藩安泰の基盤を築いた。ほとんど偶然に訪れた当社だが、こうしてみると、鎮座地周辺は歴史の襞のようなものを感じさせるところだ。
(kokoroさん)
No.435
2005.8.12 UP
2020.10.9 更新