明治末に熊野神社を合祀
最寄り駅は、東急田園都市線の梶が谷駅か宮崎台駅(こちらの方が近いそうです)。
尻手・黒川道路(しってくろかわ)方面からですと、馬絹神社前信号を写真のステーキハウス・サニーロード側に曲がり、トンネルをくぐった左手、児童公園の裏手の方にあります。
広い道路から直接は見えませんが、こんもりした山が目印になると思います。
馬絹神社前信号
馬絹神社参道入り口(背後にマンションあり)
参道も境内も桜が満開。私の他にも2名の方が参拝に訪れていました。
手水舎 紋は三つ巴
手水鉢の上には、鳥除けかゴミ除けのネットカバーがありました。
参詣者への心配りを感じます。
<馬絹神社建設の碑より>
馬絹神社は古き時代より、地域住民の守り神として、人々から崇敬されてまいりました。
御祭神は伊邪那美命であり、縁結びの神、開運の神として、広く知られております。
御神木千年の松があり、頼朝公、袖掛の松と伝えられております。古文書に女体権現の社地として、五反二畝歩と記録されております。
明治四十三年三月、女体神社、八幡神社、三島神社、熊野神社、白山神社を統合し、神明神社と改称、村社に成った由緒ある神社であります。
昭和四十五年六月、社殿の老朽化に伴い、本殿、神楽殿の建設を決議し、十年の歳月を経て昭和五十四年十月、神楽殿が完成しました。
昭和五十八年七月、役員会を開催し、本殿の建設を決定、翌五十九年一月、馬絹神社建設委員会が結成され、三年計画を以って建設に着手、昭和六十一年十月、総費用二億五千万円を要して落成の運びとなり、 社名を馬絹神社としました。
このたびの馬絹神社の建設に当り、百六十余名の建設委員を始め、賛同者各位の多大なる御尽力、御寄進に対し、衷心より感謝申し上げ、ここに碑を建て、永く後世に伝えるものであります。
昭和六十一年十月吉日
拝殿の戸は僅かに開けられていて、閉ざされた感じではありません。
八坂神社、秋葉神社、三嶋神社のお社
稲荷社
千年の松の一部を保存したもの
<説明書より>
松の一部と板材加工した板。厚さ約一寸(3センチ)、高さ六尺。
昭和十六年まで参道入り口に茂っていたが、戦争の為、切り取られる。
古代、頼朝公が松に馬の袖絹を掛けたとの伝説あり、故に馬絹とも云へり。
稲荷社の脇の道を右手に曲がり、眺めの良い頂上に馬絹古墳園があります。
神奈川県の史跡に指定されている馬絹古墳は、
7世紀後半頃に造られたとされる円墳です。
発掘調査時は、既に盗掘されており、
木で作った棺に用いられたとみられる鉄釘が79本見つかっただけだそうです。
近くには西福寺古墳もあります。
馬絹古墳の石室説明
馬絹古墳からの眺望
<参拝の感想>
馬絹神社の近くには幹線道路の国道246号線や
尻手黒川道路、JRの貨物ターミナルがあり、
郊外と言えども喧噪を感じる場所のイメージでしたが、マンションや住宅が迫っている鎮守の森でも、一歩足を踏み入れると、心穏やかになるから不思議です。
また、神社合祀について、年月まで明確にされているところは、少ないのではないでしょうか。
参拝と撮影を済ませ神社を去る際にも、参道から何度も社殿を振り返り、なぜかその場から離れがたくなるような理想の神社でした。
※私は、先に神社裏手の馬絹古墳園を見学させていただきました。
買い物帰りと思われる奥様に道をお尋ねしたところ、桜が咲いているでしょうから一緒にと言って、古墳までご案内頂きました。
山の頂上まで登らせてしまうことになり、申し訳なく思いました。
さらには宮崎台駅方面への帰りの道順まで。親切にして頂き感謝いたします。
(瀬音さん)
No.1717
2013.4.17 UP
2020.8.13 更新