平家最強の武将・平教経による勧請と伝わる熊野神社、本尊は安徳帝
以前は別の地にあったのですが、魚梁瀬(やなせ)ダム築造工事により水没してしまうので、昭和40年に電源開発会社の補償により現在地に移転したそうです。
この冬の水不足で、ダムは写真の通り、地肌むき出しでした。
御由緒
由緒書きより
魚梁瀬熊野神社
寿永四年(1185)年三月、平氏は壇の浦に滅んだ。伝うるところによると、門脇中納言平教経(のりつね)は安芸郡の大領(長官)安芸太郎、次郎を道案内として一族と共に、讃岐へ上陸し、阿波の祖谷(いや)を経て、魚梁瀬の西川二の谷へ落ちのびた。しかし生活が不便で、人数も増してきたので、梁(やな)を西川に流し、それが流れついたところの奈路(なろ)、即ち魚梁瀬を永久の住居とし中屋敷西の森に熊野権現を奉斎し、安芸氏から受けた恩を徳として、安芸大領真康を大領権現として合祭した。後世になって熊野権現を大領権現と称するようになった。
ご神体はご神鏡四面で、ご本尊は安徳帝の座像である。
大祭は毎年旧暦九月十五日に行われ、当人六人、後見(うしろみ)一人、小使二人、かしき一人、女の給仕二人が九月十一日から宮ごもりをし、早朝川へ入って斎戒沐浴し、後見は麻裃(あさかみしも)に威儀を正し、少女の給仕人は厚い綿帽子をかむり御輿(みこし)の供をした。
祭典の際には、門脇殿(教経の末裔)お迎えの七回半使といって、小使が七回門脇殿を呼びに行き、八回目に途中で出会うことになっている。詳しい行事は省略する。現在は、新暦十月十五日、諸式を省略して例大祭を行なっている。
尚、門脇一族の菩提を弔うため城福寺を建立し、鎮守の神として平氏尊崇の厳島大明神を奉斎した。
馬路村文化財調査委員会
(マサやんさん)
No.673
2007.2.24 UP
2021.9.4 更新