元キリシタンに熊野牛王への誓紙血判
天文十八年(1549)八月十五日、1人のスペイン人が鹿児島に上陸する。男の名はフランシスコ・ザヴィエルと言った ── 、わが国におけるキリスト教布教のはじまりである。ザヴィエルはやがて南蛮貿易で賑わう平戸に移り、そこで多くの信者を獲得する。彼の帰国後も後続の宣教師たちは活動を続け、キリシタンと呼ばれるようになったキリスト教徒の数は増加し、とくに平戸の隣に浮かぶ生月島では天文二十二年(1553)、領主の籠手田安経や一部勘解由が信徒となり、領民にも入信を勧めたので島民のほとんどがキリシタンとなるにいたった。
ところが天正十五年(1587)、豊臣秀吉がキリシタン抑圧に政策を転向し、続く江戸幕府も禁教令を敷いて、ここに追放や殉教の悲劇がはじまる。キリシタンが特に多かった生月島でも平戸藩の圧迫から信仰を守るため、時の領主、籠手田安一と一部正治は800人もの信者を引き連れ長崎に脱出しなければならなかったし、島に残った信徒達も新しく領主となった松浦氏によって弾圧され、改宗を強要された。こうした事態から、生月島からは非常に多くの殉教者が生まれることになる。
現在、生月島の玄関口に当たる山田免には山田教会という教会が建ち、堂内にはわが子イエスの死から受けた悲しみに身をよじるスターバト・マーテル(悲しみ聖母)の像が安置されている。わが国でスターバト・マーテルの像がある教会は、やはり殉教者を多く出した五島列島内のとある教会とここの2例だけという。
同じ山田免には舘浦港を南に見下ろす小さな丘上に比売神社という神社がある(平戸市生月町山田免934番地)。主祭神は豊玉姫神であるため(他に素戔嗚尊を配祀)、この神社じたいは熊野信仰との直接的な係わりはない。しかし、『最新松浦誌』によると、寛永年間、山田奉行が生月島のキリシタンをことごとく改宗させた際、当社で元信徒に熊野牛王神符への誓紙血判をさせたという。
熊野牛王宝印は鎌倉期末いらい、起請文の料紙として多用されていたが、それにしても、当時の熊野信仰がキリスト教に対する対抗宗教にふさわしいと目されていなければ、こんな事件は起こらなかったはずである。いずれにしても、このエピソードは一般にほとんど知られていないと思うのであえて紹介してみる。
(kokoroさん)
番外編 No.17
2009.1.21 UP
2021.3.21 更新