(奈良県北葛城郡広陵町南郷庄之垣内)
祭神
日鉾神(ひぼこのかみ)・伊太祁曾神(いたきそのかみ)・日前神(ひのくまのかみ)
日鉾神とは一般的には朝鮮半島新羅国の王子で妻阿加留姫神を追って日本に渡り、但馬国出石(現兵庫県出石郡出石町)に住んだ、田島守の祖神とされる神のことだが一方、天照大神の天岩戸隠れの際に鋳造された日矛神(ひぼこのかみ)とよばれる鏡があり、紀伊国日前国懸神宮(現和歌山市秋月鎮座)の国懸宮(くにかかすのみや)の祭神になっている。伊太祁曾神とともに祀られることから、この社の日鉾神は後者の日矛神を指すものと考えてよいだろう。三神目の日前神とは日前国懸神宮の日前宮の祭神で、天照大神が天岩戸に隠れた際に鋳造された鏡をいい、祟神天皇十六年に現在地に鎮座することになったとされる。
三神を祭神とすることはこの社に古くから伝わっていたらしく、享保九年(1724)の「和州御領郷艦」(東京都・林英夫文書)には、宮地一九二坪の「記三社」があり、明治元年(1868)の「広瀬社郷中併兼帯神社書上」にも南郷村神社として「記三社」なる社名が書き上げられている。「記三社」のその後は不明だが、斎音寺村鎮座の記三上神社とこの「記三社」を同社名と考えるとすれば、記三上神社の祭神の一つが伊太祁曾神であることから、「記三社」とは現在の熊野三柱神社のことになるだろう。
斉音寺の記三上神社とともに、なぜこの地に紀州系の神々が祀られるようになったのか、興味深いものがある。前出明治十二年の「神社明細帳」には一尺八寸四方の本殿、梁行一間四尺の拝殿が記されている。また、明治二十六年(1893)の「神社明細帳」によれば境内者に多度神社があった。この社は前出「広瀬社郷中併兼帯神社書上」には独立した神社として書き上げられているが、後に熊野三柱神社に合祀されたものだろう。多度神社は天照大神と素戔鳴尊が「ウケヒ」をした際に生まれた五男三女の一神天津彦根命を祀る神社で、本社は三重県桑名郡多度町に鎮座する。『延喜式』臨時祭の祈雨神祭に預かる神社ではないが、江戸時代には大和の農民の祈雨信仰の対象になっていた。本町域の村々でも多度神社への信仰があり、天保十年(1839)六月、平尾・疋相・安部・大垣内四村から雨乞いのため多度社に参詣し、祈祷を受けた記録が残されている。(『雨乞神事諸入用勘定帳』)
出典:広陵町史より
境内はジャングルジムなどがあって半分児童公園のよう。
こちらの拝殿のむこうに本殿があります(本殿には入れません)。
拝殿前の銀杏の大木。
神社の横は小川が流れていて、橋の横では桜が満開でした。
銀杏の大木には蛇がいました。クロクチナワ?
この写真を撮影した後、するすると器用にバックで銀杏の木の中に入って行きました。
狛犬さんの足にはひもが結ばれていました。
こういった風習は時々みかけます。願かけ?
(資料提供・みえこさん 画像・文・そま)
No.175
2003.4.15 UP
2021.3.22 更新
参考文献
- 『広陵町史』