生駒山麓にある熊野神社
境内にある石碑から
熊野神社分神鎮座記念碑
昔 楽音寺熊野神社は、西の山の東金毘羅屋敷にありましたが明治初期に、貴島康彦先祖の土地である当地に移されたが、その後倒壊し、御身体は神立にある郷社玉祖神社に預けられました。
昭和三十一年七月十五日、当神社再建にともない、預けた御身体をもちかえったが、御身体名については宮司並びに村民に尋ねたが誰一人として知る人がおらず、故に村の三役によって熊野本宮大社へ参り、宮司様とお会いして由来を聞いた。それによると「京都より摂津和泉を過ぎ当国に入り田辺より近露を経て当地に至る沿道に諸王子社あり、古くは、末社と称せられたが後世諸王子社の多くは、衰微して僅かに地名にのみそのあとを止めている状況であります。全国に分布する熊野社の分社は、五千社あって大阪府下には六十余社が分神としてまつられている」とのことであり、当神社もその一つであることが判明したので、昭和五十七年七月十五日、新たに分神として迎え、之を記念し建立したものである。
(ZOU注:“御身体”は原文のまま)天照皇大神
家津美御子大神(素盞嗚尊)
速玉之男大神
伊邪那岐大神
事解男大神
伊邪那美大神(熊野牟須美大神)
文中の貴島家とはどうやらこの土地の名士らしく、付近には貴島本家や貴島病院などがありました。お医者さんの家系みたいです。
この熊野神社の東側には「西の山古墳」という前期の前方後円墳があります。
上記の碑文により、かつては「楽音寺熊野神社」として、古墳のさらに東側に鎮座していたことがわかります。
やや寂れている気はするものの、今もここを守る人がいることが感じられました。
現社地は西の山古墳とともに生駒山地西斜面の高台にあり、西側に向かって大きく視界が開けています。
この眺めの良さが移転地として選ばれた理由のような気がします。
晴れた日に境内からは、大阪湾を経て六甲山や淡路島への展望が楽しめることでしょう。
(ZOUさん)
No.121
2002.5.19 UP
2020.6.11 更新